「パズル映画」の4大パーツ (フィルムロジック)

「なるほど」と言わせる映画作り
 僕が映画を見ていて、一番楽しいのは、「なるほど」と思わせる描写を発見したときである。「これがこうなっていて、こうなるんだな。なるほど」と、観客にわざと考えさせて、納得させる描写である。納得させる方法はストーリーに限らず、画角や音楽の使い方などにも隠されている。巧みに構成された作品を見ていると、さながらパズルを解いている気分にさせられる。今後、当サイトでは、そのような映画を総じて「パズル映画」と呼ぶことにする。
 ビリー・ワイルダー監督はパズル映画の天才である。彼の映画のいたるところにパズルが隠されている。それは発見しやすく、理解しやすい。ワイルダーは要所要所で観客にパズルを投げかけ、わざと解かせる。パズルを解くから観客は面白いと感じる。ワイルダーの映画は、たとえシリアスものでも、見ている間、良い気分にさせることがあるが、これは彼の映画が観客にパズルを解く快感を与えているからである。
 エイゼンシュタイン、チャップリンらもパズル映画の名手であったが、エイゼンシュタインのパズルは難解すぎて、パズルを解いた快感がいまひとつ得られない。チャップリンのパズルは思想的すぎて、映画から逸脱しがちである。バランスがいいのはルネ・クレマンやヒッチコックの作品である。
 ワイルダーの初期作品は特別素晴らしく、たとえば「失われた週末」(写真1)は、もっともバランスのとれたパズル映画である。作風が洗練されている中期・後期の作品に比べて、この作品はまだ荒削りといった感じで、多少演出はぎこちないが、構成やカメラなどは野心的に工夫している様がうかがえ、かえって考えさせられる点が多い。これこそパズル映画の仕掛けを見極めるにもってこいの研究材料である。本作品に見られる作風は大きく4つあるが、それらはパズル映画に欠かせない4大パーツそのものでもある。これからそのひとつひとつを、場面を引用しながら解説していこう。
1.映像に語らせる
 映画が映画であるためには、映像の力を活用したいものである。ワイルダー、フォード、チャップリン、エイゼンシュタインといった映画史を代表する監督たちの作品は、映画的な躍動感が息づいている。
 パズル映画の第一要素は「映像に語らせる」こと。映像を見ていなければストーリーがわからない作品の方が、映画的には面白い。視覚が訴える要素は大きい。映像で表現できる事柄を、一緒にセリフで説明したのでは、パズルの答えを教えられたようで、つまらない。あくまで映像だけで間接的に語らせるのが面白いのだ。
 「失われた週末」では、主人公が酒場で飲んだくれるシーンで、テーブル上についたグラスの底の跡が映される(写真2)。このワンカットで、主人公が必要以上に酒を飲み過ぎたことがわかる。時間が経過したこともわかる。
 主人公が階段から転げ落ちたあと、場面は変わって、今度は天井に金網の影が映し出される(写真3)。このワンカットでは、次のシーンを見ずとも、気絶した主人公が依存症患者のための病室に寝かされていることがわかる。
 このような映像によるストーリーの間接描写を見て、観客は「なるほど」と納得し、「自分はちょっとしたパズルを解いたぞ」という快感を得るのである。
2.時間と空間を組み立てなおす
 時間と空間(場所)をバラバラにつなぎあわせた作品は、ストーリーの組み立て作業を観客に任せることになる。つまり、観客はパズルを解く快感を得られる。時間と場所に限らず、シークェンスごとに中心人物を変えてみるのも、観客の想像力を刺激させる。時間を組み立てなおす作業は、下手すると、わかりにくくなるおそれがあるため、監督の腕が試されるだろう。成功すれば、観客に「見事だ」と言わせる作品ができる。その最たる例は「市民ケーン」「羅生門」である。
 「失われた週末」の時間構成は、映画のお手本ともいうべきユニークかつ明確なもので、実に丹念に練り込まれている。主人公がいかにして恋人と出会い、アル中になったかを、ユーモアとサスペンスを交えて、断片的に説明していくのだが(写真4)、時間の移り変わりの見せ方がスムーズで、観客にじっくり考えさせる余地を与えている。主人公がバーテンに昔のことを語る形からフラッシュバックしていくところなど、見事なものである。
 最初のシーンと最後のシーンが同じ映像というのも心憎い演出である(写真5)。最初のシーンではフェードインして、カメラが左から右にパンし、主人公の部屋の窓にしだいに近づいていくのだが、最後のシーンでは逆にビルから遠ざかっていき、右から左へとパンしてフェードアウトする。頭と尻を結びつけて、作品全体をまるくおさめ、最後に大きなパズルを完成させて締めくくるのである。なにかひと仕事を終えたような達成感が得られるエンディングである。
3.小道具に重要な意味を持たせる
 ワイルダーは小道具の使い方にかけては右に出るものはいない名匠であった。ワイルダーの映画は、小道具そのものがストーリーを左右する。ミステリー映画などでは小道具は大切だが、ワイルダーはほんの些細なシーンでも小道具を活用したものである。その使い道の意外性がワイルダー映画の面白いところで、それを発見することが、パズル映画の醍醐味なのである。
 「失われた週末」には重要な小道具が数多く登場する。酒びん、タイプライター、タバコ、銃、牛乳瓶、ヒョウ柄のコート、などなど。 それぞれがストーリー上において重要な意味を持ち、主人公の心境を象徴したものになっている。タイプライターは社会復帰を意味する記号であるが、それは質屋で堕落を表す酒びんに変わってしまう。逆さにくわえたタバコは恋人に頼りたいという記号である。牛乳瓶は一日の始まりを意味する。恋人の思い出を意味するヒョウ柄のコートは、自殺を意味する銃へと入れ替わる。ラストでは馴染みのバーテンが主人公のもとへタイプライター(社会復帰)を持って現れる(写真6)。
 最後には、主人公はついに酒を断つことに成功するが、ワイルダーはここも小道具を使って映像だけで描写している。酒の入ったグラスに、タバコをポトッと落とす。ただこれだけである(写真7)。セリフは何もないが、劇的なBGMと相まって、感動的な仕上がりである。
4.ユーモラスに描く
 「パズル映画」でもっとも重要な要素は「ユーモア」である。これは「おかしさ」という意味だけを指して言っているのではない。「品の良さ」「ウィット」「センス」「ユニークさ」などの意味も含まれる。ユーモアは、暗くてシリアスな作品の中にあっても構わない。ユーモアのある演出こそ、観客に「なるほど」と言わせることができるのだ。
 平凡なシーンでも、そこにプラスアルファの何かが欲しい。その何かがあるだけで、シーンがぐっとひきしまる。たとえばある日本人が週刊誌を買うシーンを想像してみよう。週刊誌を買う様子をそのまま映し出すのも構わないが、週刊誌を手に取るとき、重ねてある二冊目の週刊誌を取らせるように演出すると、日本人の習慣性が表れたユーモラスな映像になる。こういうプラスアルファの演出は、ストーリー進行においてリズムを乱すと考える映画作家もいるため、扱いのどうこうは人それぞれの好みによるが、たとえばトリュフォーや山田洋次といった名匠たちは、こういった些細なプラスアルファの演出を大切にして、全体的に角が取れたコメディ映画を作ることに成功している。
 「失われた週末」では、バーで酒から目を離さないレイ・ミランドのプラスアルファの演技が面白い(写真8)。バーテンが酒の位置を移動させると、すぐに主人公は酒を手にとって定位置に戻す。これがユーモアである。こういう何気ないアクションには意外とリアリティがある。アドリブでなければなかなか出せない演技だが、おそらくこのシーンは、あらかじめ決められた演技によるものだろう。ワイルダーの発想の勝利である。
 「失われた週末」には、面白いアングルの映像もある。主人公が隠しておいた酒びんを探すシーンである(写真9)。電灯の上に隠したはずだが、どうしても思い出せない。しかし映像には電灯がはっきりと映っている。観客にだけ種明かしをして、ユーモラスに描いているのだ。子供だましな演出かもしれないが、悪いものではない。
 病室に移動してからのシーンでは、看護士がアルコール依存症の恐ろしさについて語る様子がローアングルで描写されている(写真10)。このアングルの意味は大きい。主人公が立たされたシチュエーションが間接的にユーモラスに表現されているのである。主人公はいわば拘束された身であり、この看護士の意のままなのである。こういったシーンを見ても、やはりワイルダーの描写はうまいものである。これが観客を「なるほど」と言わせるのだ。
(1)「失われた週末」のワンカット。ビリー・ワイルダーの作品には「なるほど」と納得させる何かがある
(2)主人公が必要以上に酒を飲み過ぎていることを一瞬で理解させるユニークなカット


(3)天井に見える金網の影。これは病院に入れられたことを意味する
(4)物語の主人公がいかにして恋人と出会い、アル中になったかを、断片的に説明していく


(5)最初のシーンと最後のシーンを結びつけて、作品全体をまるくおさめる
(6)タイプライターを持って絶妙のタイミングで登場するバーテン


(7)酒をじっと見たあと、タバコをグラスに捨てる主人公
(8)酒から目を離さない主人公。ちょっとしたプラスアルファの演出がユーモアになる


(9)酒を電灯の上に隠しておいたことを思い出せない主人公。観客には種明かししている


(10)ローアングルにより、主人公が立たされたシチュエーションを間接的に表現する

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