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ダウト−あるカトリック学校で−

2008/アメリカ/ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
出演:メリル・ストリープ フィリップ・シーモア・ホフマン エイミー・アダムス ヴィオラ・デイヴィス 
監督:ジョン・パトリック・シャンリィ
脚本:ジョン・パトリック・シャンリィ
製作:スコット・ルーディン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:ハワード・ショア
http://www.movies.co.jp/doubt/

偏差値:59.0 レビューを書く 読者レビュー(1)

トニー賞×ピュリッツァー賞をW受賞した大ヒット舞台劇、ついに映画化

ケネディ大統領暗殺の衝撃や公民権運動の拡大により、時代が大きな転換点を迎えつつあった1964年、アメリカ・ニューヨーク。ブロンクスのカトリック学校に教える、鉄のように厳格な校長シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は、ある“疑惑”を抱いていた。それは進歩的で生徒にも人気があるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、学校で唯一の黒人生徒と“不適切な関係”をもっているのではないか?ということ。純真な新人教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)の目撃談によって芽生えた小さな“疑惑”は、やがて一滴の毒が浸透していくかのようにシスター・アロイシスの心を支配し、フリン神父に対する激しい敵意へと変貌していく。彼のいかなる釈明にも、頑なに耳を傾けないシスター・アロイシス。一方、シスター・ジェイムズはフリン神父の説明を聞き入れ、反対に“疑惑”のモンスターと化したシスター・アロイシスへの不信感を募らせる。果たして、すべてはシスター・アロイシスの妄想なのか? それとも、フリン神父は虚偽の証言を行っているのか? “疑惑”をめぐる信念の闘いは、観客を衝撃のラスト・シーンへと導いていく。

アメリカ演劇界で最も高い権威を誇るトニー賞最優秀作品賞を始め主要4部門とピュリッツァー賞演劇賞をダブル受賞した傑作舞台劇を映画化した『ダウト−あるカトリック学校で−』は、多様な価値観が対立を見せはじめた60年代前半を背景に、人間の心に巣食う闇を豪華アンサンブル・キャストによる名演で炙り出した、究極のヒューマン・サスペンスである。監督は、自身の戯曲をもとに今回の映画化でも脚本を手掛ける気鋭ジョン・パトリック・シャンリィ。'87年『月の輝く夜に』でアカデミー賞脚本賞を獲得している彼が、21世紀に入って最大のセンセーションを巻き起こした舞台劇の世界観をさらに掘り下げ、カトリック学校を揺らす一大スキャンダルの真実をサスペンス・タッチで巧みに描き出している。
また、選び抜かれた言葉の応酬が織り成す、優れた会話劇としても類まれな完成度を誇っているのは、当代随一の演技派・実力派キャストがこの作品のもとに結集したため。アカデミー賞俳優として誰もが賞賛を惜しまないメリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、次世代ハリウッド・スターの中でも抜きん出た実力をもつ『魔法にかけられて』のエイミー・アダムスに加え、全米各映画賞のダークホースとして一躍脚光を浴びる黒人生徒の母親役を演じたヴィオラ・デイヴィスらが、思わず息をのむほどの緊迫感に満ちた競演を見せて圧巻だ。とりわけ、ストリープとホフマンのふたりが終盤でくり広げる、約15分にわたる壮絶な言葉を介した“闘い”は、映画史上に残る屈指の名シーンとして長く語り継がれるに違いない。

監督の出身地でもあるニューヨーク・ブロンクスで実際に撮影された、殺風景でどこか不穏な映像の数々は、『ファーゴ』『ノーカントリー』などでアカデミー賞に7度ノミネートされた名撮影監督ロジャー・ディーキンスによるもの。『ブロークバック・マウンテン』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で知られる職人ディラン・ティチェナー,A.C.E.の編集と共鳴し、静謐さの中に緊張感を張りめぐらせた繊細な映像を作り出すことに見事成功している。さらに、名匠ハワード・ショアの手による音楽も、本作のビジュアル・コンセプトに対応したストイックなアプローチに徹し、多彩な登場人物たちの人間性をより色濃く浮き彫りにしている。
最高のキャストと最高のスタッフを得た監督のシャンリィが、この作品で描こうとしたのは「人間は確信をもつことなどできない」という真実だ。彼はそのテーマを物語に直接的に反映させるだけでなく、“疑惑”の仕組みそのものを物語に織り込むという、大胆な試みにもチャレンジしている。映画の冒頭で投げかけられた謎は、観客の心の中にもさまざまな猜疑心を生み、ひとつの結論を押し付けることがない。それゆえ、“疑惑”について考察されるラスト・シーンの解釈はすべて観る者に委ねられているのだ。

舞台となる60年代前半は、それまで信じられていた多くの思考・行動様式に疑問符が提示された激動の時代だといえる。ケネディ大統領の登場と暗殺、マーティン・ルーサー・キング主導による公民権運動の高揚が象徴したのは、旧来の権威に対する異議申し立てであり、新たな変革を求める希望の声だ。その時代の波は、厳しい戒律を守るカトリック教会にも次第に押し寄せ、聖職者たちの閉じられた世界を飲み込んでいった。本作のオリジナル版となる舞台が上演され絶賛を受けたのは、9・11の余波がイラク戦争へと発展し、世界が大きく揺れ動いた04年。そして09年、同じように旧来の価値観が機能不全を起こし、人々が変革を求める時代に、『ダウト−あるカトリック学校で−』が探求する深遠なテーマは、より現代的な問題として異彩を放って見える。



Story 目撃者も、証拠もない——あるのはただ「疑惑」だけ・・・。

1964年、ニューヨーク・ブロンクスにあるカトリック学校、セント・ニコラス・スクール。「確信がもてない時、あなたならどうしますか?」司祭を務めるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、教会の大聖堂で信者や生徒たちを前に説教を行っていた。前年に起きたケネディ大統領暗殺事件に触れ、絶望感が人々を結びつける強力な絆になったと主張する彼。「疑惑というものも強力な絆になり得るのです!」笑みを湛えながらそう語るフリン神父の姿を、鉄のように厳格な校長シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は、冷徹なまなざしで見つめている。
旧来の道徳観と篤い信仰心をもつシスター・アロイシスは、純真な新人教師のシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)にたびたび注意を喚起していた。授業中、急に鼻血が止まらなくなった少年について、学校をサボるため、わざと鼻血を出したのではないかと指摘するシスター・アロイシス。彼女は、物事を“疑惑”の目で見なければならないことを、シスター・ジェイムズに断固として告げる。シスター・ジェイムズは疑惑をもつことによって神様が遠ざかってしまうのを怖れるが、シスター・アロイシスはこう説く。悪事に立ち向かおうと1歩踏み出せば、それは神様から1歩遠ざかることになる。しかし、それは神のために成す行為なのだ、と。

学校でバスケットボールを教えるフリン神父は、生徒たちからの人望も篤い。彼は学校が守り抜くストイックな風習に対し、現代的な開かれた教会を目指すべきだという持論を展開していた。ある日、シスター・ジェイムズはシスター・アロイシスに、フリン神父が学校で唯一の黒人生徒ドナルド・ミラーに強い“関心”を持っていることを報告する。シスター・ジェイムズは、フリン神父が礼拝の侍者役に選ばれたドナルドを司祭館へ連れていき、彼を酒臭い息とともに教室へ帰して寄こしたのを目撃していたのだ。
校長室にフリン神父を呼び、真実を追求するシスター・アイロシス。しかし、彼はドナルドが祭壇用のワインをこっそり飲み、そのスキャンダルから生徒を守ろうとしたのだと反論する。フリン神父の証言を信じ、ホッと息をつくシスター・ジェイムズ。一方、シスター・アロイシスは何の証拠もないまま、欲望に忠実なフリン神父の嘘を強く確信していく。「校長先生はあの人のことが嫌いなだけです」と、シスター・アロイシスに詰め寄るシスター・ジェイムズ。アロイシスはドナルドの母親であるミラー夫人(ヴィオラ・デイヴィス)を学校に呼び、詳しく事情を聞くことにする。

フリン神父は再び祭服をまとい、大聖堂で説教を行っていた。それは、女性がナイフで切り開いた枕の羽根を、“噂”にたとえた寓話である。説教の真意を尋ねるシスター・ジェイムズに対して、フリン神父は孤独なドナルドを真に守ろうとしているのは私だと、あらためて主張する。その頃、校長室を訪ねていたミラー夫人は、息子を見守ってくれているのはフリン神父だと、彼への感謝の気持ちをシスター・アロイシスに語っていた。ドナルドとの不適切な関係をほのめかすシスター・アロイシスに向かって、ミラー夫人は涙を流して激しく抗う。どんなことがあろうと、息子には誰か気にかけてくれる人が必要なのだ、と。
ミラー夫人と別れた後の校長室に、彼女を呼び寄せたことに激昂したフリン神父が入ってくる。自分への無根拠な反対運動は止めるように強く迫るフリン神父。しかし、シスター・アロイシスは揺るがぬ自信をもって、彼に司祭の職を辞任するよう要求する。ふたりの信念を賭けた闘いは、いま最後の局面を迎えようとしていた——。