マリリン・モンロー (今週のスター)
世の男にもてる術
「マリリン・モンロー」という名前の語感からしてこの上なく響きがいい。独壇場の演技よりも、主演男優の相手役を演じることで才能を発揮する女優なので(そこがいいのだが)、突出して目立っている傑作はないが、それでも彼女が決して誰も超えることのできないナンバー1のスターであることは間違いない。もはや存在自体が20世紀映像メディアのひとつの様式に達しており、「スター」という概念のアイコンそのものである。わかりやすく言えば、「スター」ときいて最初に思い浮かぶ人物がモンローだということである。「何を着て寝てますか?」「シャネルの5番よ」(つまりは裸)という冗談を言っただけで、世間が大騒ぎするなんて、今じゃありえないだろう。波乱万丈の生い立ち、スターとしての生き様、結婚とゴシップ、そして、永遠に若さをとどめた謎の死。つまりは彼女の中にある全部の要素が伝説的であり、ファンの心を鷲づかみにして離さないのである。あの小さなホクロでさえも奇跡に思えてくるのだ。
僕はかつてマリリン・モンローが映画女優だということを知らなかった。「モンロー」という存在だけが一人歩きしてファッションとなり、ポスターやカンペンケース、マグカップなど、ありとあらゆるところで「モンロー」が飛び交っていた。アートやテレビ番組などの中でもしょっちゅうカリカチュア化されていた。僕にとって、モンローはアインシュタインみたいなものだった。アインシュタインが何をした人かは説明できなくとも、彼の顔を知っているように、モンローの顔は誰でも知っていた。真面目に考えてみると、彼女ほどの大人物が、実は「映画」を仕事にしてた女優だったなんて、映画ファンの僕としては、とても鼻高々な気分だった。
ここで、世間が抱いているモンロー像の「誤解」を解かなければならない。というのも、僕はかつてはモンローが嫌いだった。バカっぽくて、ふしだらな印象があったからだ。若い人の中にはそういう偏った考えを持つ人もいるだろう。日本のヤング向け映画雑誌の人気投票では、オードリーとヴィヴィアン・リーが、今時の売れっ子若手スターと肩を並べて現在も人気健在なのに、本来なら1位になるべきモンローの名前はそこにはない。それも誤解のせいか。断言するが、モンローはバカでもなければふしだらな女でもない。オーバードラッグと鬱病でどうしょうもない時期があったのは事実かもしれないが、それはこの際忘れよう。モンローの人柄の良さは有名な話で、モンローと出会った人たちは、皆決まってモンローのことを気さくで素敵な人だと褒めている。純情でしとやか。包み隠さず、他の多くのスターのように、いばることがない。それでいて「スター」であることの意味を誰よりも理解しており、ファンの期待は決して裏切らない。一方で、ジョー・ディマジオと結婚したときは、良妻になりたい一心から、本気で引退まで考えていたこともあり、普通の女としての一面も見せている。来日したときは、記者陣のインタビューに、落ち着き払って、どんな質問にも即答し、その機転を利かせた発言からは、肉体派のバカな役柄とは裏腹に、聡明さがうかがえた。ちなみに「あなたが身にまとっている毛皮はなんですか?」という質問には「フォックス(狐)です。でも20世紀フォックスではありません」とジョークで答えている。
演技については、下手という人がいる一方で、本当に目の肥えた人は口々にモンローの演技を絶賛している。あのもろく小さなささやき声を、わざとらしい芝居と捉えるか、それともモンローなりの「芸」と捉えるかの問題だ。モンローは役作りにかけては熱心な方だった。アクターズ・スタジオより、リー・ストラスバーグからコーチを受け、あえて役どころを積極的に変えてきたのも、モンローが演技派を目指していた表れである。歩きながら腰を振る、いわゆる「モンロー・ウォーク」は、演技中自然とそういう動きになって生まれたものだと語っているが、その才能も含めて、モンローの演技はオリジナリティのある「芸」として、拍手を送るべきではないだろうか。モンローは歌も歌うが、歌っている最中、「プゥ」「フワァ」と自分流のアクセントをいれるところなどにも、エンターティナーとしての並々ならぬ才気が感じられる。
輝くプラチナブロンドと、柔らかくて雪のように白い肌。愛くるしい物腰。プロポーションも非の打ち所がない。モンローはかつてヌード写真で生計を立てていたが、その写真が後に暴露され、「プレイボーイ誌」という新しい文化に火を付けるほどのセンセーションを起こした。モンローはこの件について、隠したり嘘をついたりはしなかったが、この結果、好感度は急激に跳ね上がった。このあけすけの態度は、ついに女の性を解放させたと評され、これがきっかけで、モンローは「セックス・シンボル」と呼ばれるになった。この言葉には、あらゆる意味が内包され、ひとことで説明することができない。もちろん肉体的な部分だけを指して言っている言葉ではないことは、皆が承知していることだろう。モンローは、何もかも忘れさせてしまうほど性的魔力を秘めているが、それ以前に、そっと抱擁したくなるようなウブな可愛らしさ、優しさがある。
モンローが男性だけでなく女性にも人気がある理由として、彼女が男にもてる術を知っていたことがあげられる。ドレスの着こなしももてる要因のひとつだが、モンローはそれ以上に、かなりの性格美人であった。人と会うときは必ず自分から「こんにちは」と挨拶をした。男性に「美しい髪ですね」と褒められれば、「あなたの髪の方が素敵よ」と褒め返した。自分の体調が悪くとも、モンローは常に自分よりも相手のことに気を配っていた。また、服装面でも、男性がもっとも魅力的と感じるものを着こなし、香水はすれ違いざまにほのかに香る程度におさえた。マニキュアは男性が嫌うため、塗らなかった。カメラの前では、レンズを男性の目と思って撮影に挑んだ。モンローはカメラ・レンズを挑発し、甘えるようなコケティッシュな目で見詰めた。モンローは男性にもてる術をまさに熟知していたのである。これは女性ファンにとっては、尊敬に値することだろう。
最後に、僕は常に映画は監督で選ぶものと思っていたのだが、モンローを見ていたら、本来なら映画はスターで選ぶものなのだと、考え直さざるを得なくなった思いである。いい響きだ。「マリリン・モンロー」。
「マリリン・モンロー」という名前の語感からしてこの上なく響きがいい。独壇場の演技よりも、主演男優の相手役を演じることで才能を発揮する女優なので(そこがいいのだが)、突出して目立っている傑作はないが、それでも彼女が決して誰も超えることのできないナンバー1のスターであることは間違いない。もはや存在自体が20世紀映像メディアのひとつの様式に達しており、「スター」という概念のアイコンそのものである。わかりやすく言えば、「スター」ときいて最初に思い浮かぶ人物がモンローだということである。「何を着て寝てますか?」「シャネルの5番よ」(つまりは裸)という冗談を言っただけで、世間が大騒ぎするなんて、今じゃありえないだろう。波乱万丈の生い立ち、スターとしての生き様、結婚とゴシップ、そして、永遠に若さをとどめた謎の死。つまりは彼女の中にある全部の要素が伝説的であり、ファンの心を鷲づかみにして離さないのである。あの小さなホクロでさえも奇跡に思えてくるのだ。
僕はかつてマリリン・モンローが映画女優だということを知らなかった。「モンロー」という存在だけが一人歩きしてファッションとなり、ポスターやカンペンケース、マグカップなど、ありとあらゆるところで「モンロー」が飛び交っていた。アートやテレビ番組などの中でもしょっちゅうカリカチュア化されていた。僕にとって、モンローはアインシュタインみたいなものだった。アインシュタインが何をした人かは説明できなくとも、彼の顔を知っているように、モンローの顔は誰でも知っていた。真面目に考えてみると、彼女ほどの大人物が、実は「映画」を仕事にしてた女優だったなんて、映画ファンの僕としては、とても鼻高々な気分だった。
ここで、世間が抱いているモンロー像の「誤解」を解かなければならない。というのも、僕はかつてはモンローが嫌いだった。バカっぽくて、ふしだらな印象があったからだ。若い人の中にはそういう偏った考えを持つ人もいるだろう。日本のヤング向け映画雑誌の人気投票では、オードリーとヴィヴィアン・リーが、今時の売れっ子若手スターと肩を並べて現在も人気健在なのに、本来なら1位になるべきモンローの名前はそこにはない。それも誤解のせいか。断言するが、モンローはバカでもなければふしだらな女でもない。オーバードラッグと鬱病でどうしょうもない時期があったのは事実かもしれないが、それはこの際忘れよう。モンローの人柄の良さは有名な話で、モンローと出会った人たちは、皆決まってモンローのことを気さくで素敵な人だと褒めている。純情でしとやか。包み隠さず、他の多くのスターのように、いばることがない。それでいて「スター」であることの意味を誰よりも理解しており、ファンの期待は決して裏切らない。一方で、ジョー・ディマジオと結婚したときは、良妻になりたい一心から、本気で引退まで考えていたこともあり、普通の女としての一面も見せている。来日したときは、記者陣のインタビューに、落ち着き払って、どんな質問にも即答し、その機転を利かせた発言からは、肉体派のバカな役柄とは裏腹に、聡明さがうかがえた。ちなみに「あなたが身にまとっている毛皮はなんですか?」という質問には「フォックス(狐)です。でも20世紀フォックスではありません」とジョークで答えている。
演技については、下手という人がいる一方で、本当に目の肥えた人は口々にモンローの演技を絶賛している。あのもろく小さなささやき声を、わざとらしい芝居と捉えるか、それともモンローなりの「芸」と捉えるかの問題だ。モンローは役作りにかけては熱心な方だった。アクターズ・スタジオより、リー・ストラスバーグからコーチを受け、あえて役どころを積極的に変えてきたのも、モンローが演技派を目指していた表れである。歩きながら腰を振る、いわゆる「モンロー・ウォーク」は、演技中自然とそういう動きになって生まれたものだと語っているが、その才能も含めて、モンローの演技はオリジナリティのある「芸」として、拍手を送るべきではないだろうか。モンローは歌も歌うが、歌っている最中、「プゥ」「フワァ」と自分流のアクセントをいれるところなどにも、エンターティナーとしての並々ならぬ才気が感じられる。
輝くプラチナブロンドと、柔らかくて雪のように白い肌。愛くるしい物腰。プロポーションも非の打ち所がない。モンローはかつてヌード写真で生計を立てていたが、その写真が後に暴露され、「プレイボーイ誌」という新しい文化に火を付けるほどのセンセーションを起こした。モンローはこの件について、隠したり嘘をついたりはしなかったが、この結果、好感度は急激に跳ね上がった。このあけすけの態度は、ついに女の性を解放させたと評され、これがきっかけで、モンローは「セックス・シンボル」と呼ばれるになった。この言葉には、あらゆる意味が内包され、ひとことで説明することができない。もちろん肉体的な部分だけを指して言っている言葉ではないことは、皆が承知していることだろう。モンローは、何もかも忘れさせてしまうほど性的魔力を秘めているが、それ以前に、そっと抱擁したくなるようなウブな可愛らしさ、優しさがある。
モンローが男性だけでなく女性にも人気がある理由として、彼女が男にもてる術を知っていたことがあげられる。ドレスの着こなしももてる要因のひとつだが、モンローはそれ以上に、かなりの性格美人であった。人と会うときは必ず自分から「こんにちは」と挨拶をした。男性に「美しい髪ですね」と褒められれば、「あなたの髪の方が素敵よ」と褒め返した。自分の体調が悪くとも、モンローは常に自分よりも相手のことに気を配っていた。また、服装面でも、男性がもっとも魅力的と感じるものを着こなし、香水はすれ違いざまにほのかに香る程度におさえた。マニキュアは男性が嫌うため、塗らなかった。カメラの前では、レンズを男性の目と思って撮影に挑んだ。モンローはカメラ・レンズを挑発し、甘えるようなコケティッシュな目で見詰めた。モンローは男性にもてる術をまさに熟知していたのである。これは女性ファンにとっては、尊敬に値することだろう。
最後に、僕は常に映画は監督で選ぶものと思っていたのだが、モンローを見ていたら、本来なら映画はスターで選ぶものなのだと、考え直さざるを得なくなった思いである。いい響きだ。「マリリン・モンロー」。