ルネ・クレマン (巨匠の歴史)

■独特のリアリズム表現が支持される

 学生時代は美術学校で建築学を学び、18歳にして短編のアバンギャルド映画を作るなど、意欲的に活動を開始する。34年にはカメラマン、助監督として映画界に入り、やがてアニメーション映画、記録映画などを発表、ジャック・タチのコメディ映画「左側に気をつけろ」(34)を含む合計7本の短編を作る。そのときの経験が後のクレマン独特のドキュメンタリー・タッチの演出へと発展していく。

 最初の長編映画は第二次大戦下フランスの鉄道従業員組合のレジスタンスを描いた「鉄路の闘い」である。実際にレジスタンスに関わった労働者たちを出演させたオールロケの力強いセミ・ドキュメンタリー映画だ。本作は本国フランスで絶賛され、第1回カンヌ映画祭の最高賞を獲得する。

 続く「海の牙」はナチス・ドイツ潜水艦の中に閉じこめられた各国の人々の葛藤を描いたサスペンス。あまりにも巧妙な構成が高く評価され、たちまちフランス映画界期待の新人監督登場と謳われるようになる。

 クレマンの作品の中でも最も高く評価された作品は「居酒屋」だろう。クレマンはリアリズムにこだわり続けていたが、とうとう自然主義作家エミール・ゾラの作品を映画化。19世紀のパリの生活感をスクリーンによみがえらせ、「小説の完璧な映画化」と評される。日本ではキネマ旬報のベスト・ワンに選ばれたが、審査員の全員が「居酒屋」に投票、第2位の倍近くの得点を獲得したという驚くべき記録を立てていたのである。また、主演に他の文芸映画とはまったく趣の異なるマリア・シェルを起用したことも成功したゆえんとなったようで、クレマンには「キャスティングがうまい監督」「役者の魅力を引き出せる監督」という評価が定まる。

 
■「太陽がいっぱい」以後は商業映画の監督になるが・・・

 クレマン監督は、「太陽がいっぱい」をひとつの節目として、それ以後、ずいぶんとスタイルを変えた。作品は商業映画が中心で、とくにスリラーを得意とした。もともと職人気質があったので、作品のユニークな技巧に見応えがあった。事実、クレマンの映画生涯の前期と後期の両方のスタイルを併せ持つ「太陽がいっぱい」は、クレマン作品の神髄ともいえる出来栄えであったはずである。アラン・ドロンがフランス映画界最大のスターになるきっかけを作ったといってもいい。

 されど、当時のフランス映画界はヌーベルバーグの勢力が強く、クレマンの映画はなかなか目立つことはなかった。「狼は天使の匂い」など、作品そのもののクオリティはどれも高いのだが、商業主義に走ったところが、世間には「悪あがき」に捉えられた。クレマンは評価がふるわぬまま、しだいに不遇の中年監督へと落ちぶれていく。

 70年代中頃からは新作を撮らなくなり、96年誕生日の前日に永眠。日本のニュースでは、「禁じられた遊び」を作ったフランスで最も偉大な映画監督ルネ・クレマン(82)永眠」と報道された。
Rene Clement (1913-1996)
フランス・ボルドー生まれ

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