ルーベン・マムーリアン (巨匠の歴史)

映像と音に自由を与えたトーキー映画初の革新者
巧みな「映像の比喩」はドラマ性を格段に上げた
映像と音のリズム的な相互作用
 トーキー初期の時代、数多くのミュージカル映画が作られたが、どの映画もカメラワークは単調で、同時録音にも限界があったが、その制約を打破し、音と映像の相互作用を最大限に引き出し、本当の意味でのトーキー映画技法を最初に実験した監督がルーベン・マムーリアンである。当時はキング・ヴィダー、ルネ・クレール、ヒッチコックらも音と映像の相互作用を研究し、意欲的に自作で様々な手法を試みていたが、3人がサイレント時代からの技術の蓄積があったのに対し、マムーリアンは舞台経験しかなく、映画に関しては全くの素人であったのにも関わらず、第一作「喝采」における映像のリズムと音の相互作用は、何よりも映画らしい芸術で、映画界における革命といえるものだった。
「喝采」における映像美学
 「喝采」では実験的なカメラワークが多数みられる。とくにファースト・シーン、破れた新聞紙が風に吹き散らされる映像のただならぬ説得力は、エイゼンシュテインやプドフキンのモンタージュ理論にも通じるものがあるが、音を後録りして組み合わせることで、サイレントでは表現できなかったドラマ性を表現することに成功している。うぶな少女と町中で知り合った若い水兵のデートシーンのカメラワークのユーモアも特筆に値する。2人が駅で別れるシーンなど、映像のつなぎ方といい、トーキー映画の様式はそこに完成されている。ストーリー自体もマムーリアンの舞台経験が反映され、よくできているが、それ以上にそのストーリーを躍動的な映像に組み立てあげた手腕には驚かされる。
 胸の大きい肥えた中年女を大勢登場させ、その女優たちの汚いストッキングをまじまじと映し出すあたり、幾分かマムーリアンのカメラはグロテスク趣味に溢れている。ストーリーは、どうしょうもなくじわじわと破滅の道へと堕ちていく運命を、強烈なインパクトの映像で活写していくもので、20年代にして、斬新な構図の中に近親相姦などを比喩的に描出している。ラストのワンカットは、安堵感と悲劇性が共存し、何たる象徴的な映像であるか。

 続く2作目はダシール・ハメット原作、ゲーリー・クーパー主演の犯罪ドラマ「市街」。殺しのシーンを直接的に見せず、モンタージュで暗示させる技法や、小道具を利用しての比喩的オーバーラップなど、優れた技巧の傑作で、たちまちマムーリアンはハリウッドで最も注目される監督となった。
 3作目はマムーリアンのグロテスク趣味がホラー映画という形で発揮された「ジキル博士とハイド氏」。フレドリック・マーチが狂人へと豹変する映像など、マムーリアンなりの美学が感じられ、マーチはホラー俳優として初めてのアカデミー賞を受賞。

 今でこそ知る人ぞ知る存在であるが、フォードだ、ルビッチだ、という以前に、かつてマムーリアンほどの技巧派の名匠がハリウッドにいたという事実は、無視してはならない。
1898年10月8日ロシア、コーカサス生まれ。1918年から舞台監督となり、20年からイギリスで活動。23年に渡米し、ブロードウェイで「戦場よさらば」「ポギーとベス」「回転木馬」などミュージカルの金字塔を打ち立てる。29年「喝采」で映画界へ進出。35年「虚栄の市」で史上初の総天然色カラー映画を製作。50年以後は再び舞台監督として「オクラホマ」をヒットさせる。62年「クレオパトラ」の監督に起用されるも降板。1987年死去。

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