奇跡の人 (名作一本)

何をハッピーエンドというのか
 言わずと知れたヘレン・ケラーの伝記映画である。これは、僕が小学生のころ、学校の体育館で見せられた映画だ。体育館の全部のカーテンを閉じて暗くて、スクリーンに映写して、それだけでもかなりワクワクした記憶がある。そればかりが記憶に残っていて、映画の内容はほとんど覚えていなかったが、子供なりに感動した記憶がある。映像がカラーだったので、おそらく僕がそのとき見たのはテレビ版の「奇跡の人」だったのだろう。後々にテレビ版「奇跡の人」でアニー・サリヴァン先生役を演じていたパティ・デュークが、かつて舞台劇と映画版「奇跡の人」でヘレン・ケラー役を演じていたことを知って、僕は運命的なものを感じた。パティ・デュークはヘレン・ケラー役で三度もエミー賞を受賞している。彼女の息子が「ロード・オブ・ザ・リング」に出ていたショーン・アスティンだと知ったときも意外だと思った。
 主演のアン・バンクロフトについては、これを見るまでは僕には「卒業」のイメージしかなかったが、これを見てみると、バンクロフトはすごく綺麗なお姉さんである。「卒業」のケバケバしたイメージはどこにもなく、サングラスをかけていなければ質素なイメージさえあった。

 さて、女優の趣味で語り出すと僕は止まらなくなるので、この辺から本題に入るとしよう。これは舞台劇の映画化である。舞台演出家のアーサー・ペンが映画監督も兼ね、舞台と同じ出演者を映画に出演させている。ならば舞台劇チックな作風になるのではないかと思えば、そうではなく、回想シーンを挿入したり、自然の草木や小川のせせらぎを美しい映像で表現したり(ヘレンには見えないが)、実に映画的な作りをしていることに感心させられる。

 障害者を描いた映画はたいていストーリーが平坦で、とくにこれといって大事件が起こらないのが定石になっているが、「奇跡の人」もご多分にもれず、この映画ではヘレン・ケラーとアニー・サリヴァンの日常の出来事のひとつひとつを丹念に描き出していく。そして、そこが今作最大の見どころになっている。とくにヘレンにスプーンを持つことを教えるシークェンスは、丹念に根気強く描かれている。これがとても時間が長い。もう終わるかもう終わるかと思ってもまだ終わらない。延々と二人の根比べを描き続ける。見ている方も根比べである。そのシークェンスが終わったときには、見ている方までへとへとに疲れてしまう。この脱力感が、ラストの感動を引き立てるのだと思う。

 なにしろヘレン・ケラーは目も見えなければ耳も聞こえない。そうなると喋ることも物事を理解し伝えることもできない。そんな体でいったいどうやって生きていくのかと思う。ヘレン・ケラーが障害を克服し、アメリカ一の名門ハーバード大学を卒業したことは歴史上の事実である。しかし、彼女はいったいどうやって障害を克服したのかわからない。何不自由なく生活している僕にはそれがとても信じられなかった。
 だから僕はこの映画にすごく興味があった。これを見るまでは、僕の予想では、ラスト・シーンで目と耳が治ってハッピーエンドになるのだと信じていた。ところが、ヘレンの目と耳はいっこうに治る兆しを見せず、とうとう最後まで治らなかった。
 僕はハッピーエンドとは何かと定義するとき、必ず「奇跡の人」を引き合いにだす。この映画のエンディング段階ではヘレンは障害を克服していない。それなのにこのエンディングは感動的である。とくに僕は、サリヴァンがヘレンに手話で「teacher(先生)」と自己紹介するところがじんときた。要は何をもってハッピーと定義するか、その捉え方である。この映画は原題が「奇跡を起こす人」であるように、つまりサリヴァン先生を意味しているのだが、この映画のラストは、サリヴァンがヘレンに愛を抱くところで終わっている。まだまだ彼女たちの人生は始まったばかりだが、ようやく彼女たちが初めて第一歩を歩み始めた、ちょうどその時に幕を閉じるのだ。もちろん、ヘレンも初めて言葉を覚えるので、一歩前進している。障害を完全に克服するわけではないが、この第一歩は、とてもポジティブなエネルギーに満ちあふれている一歩であることは間違いない。その意味はあまりにも大きい。だからこの映画のラスト・シーンは何よりも感動的なのだ。

▲ラストシーン、これは大きな第一歩である。


1962年製作 アメリカ
監督:アーサー・ペン
出演:アン・バンクロフト、パティ・デューク

オリジナルページを表示する