疑惑の影 (名作一本)

小説でも舞台劇でもない映画芸術
 ここでは作品のストーリーについては書かない。ただ、アルフレッド・ヒッチコック曰く、自身の作品で、最も好きな作品は「疑惑の影」だという。僕にとってもヒッチコックの映画では最大の白眉はやはり「疑惑の影」だと思うし、ヒッチコックがこの映画に自信を持っていたのも納得だ。ところがこの映画はヒッチコック・ファンにとってはイマイチ人気がない。金髪美女も出てこないし、ヒッチコックらしい洒落っ気がないからだろうか。それとも、ゾクゾクするような恐怖がないからか。たしかに他のヒッチコック作品とは一味違う異色作であることは否めないのだが。

 僕は、この映画は、極度にフォルム重視の作品で、生粋のスリラーであると思う。余計な内容は省かれ、様式だけが残ったとでも言おうか。いわば映像フォルムの塊である。最初のシーンで、ジョゼフ・コットンがベッドに横になっている姿を見ただけでも、その瞬間に、映像から凄まじい空気を感じたものである。これは、カメラワーク自体が物語を語るとでもいおうか。ヒッチコックは俳優が指定位置から1歩下がっただけで激怒したというから、相当カメラの割り方には気を遣っていたはずである。俳優の表情のクローズアップも非常にわかりやすく、様式的だ。この映画では映像がストーリーを何もかも示しているといって良い。だから時折、俳優の演技や、動き、セリフのしゃべり方などがやけに非人間的にも見えてくる。まるで俳優がヒッチコックの駒(こま)になったかのようである。

 写真でもなく、絵画でもなく、小説でもなく、舞台でもない。これこそ映画芸術。その意味では、チャールズ・チャップリンの「殺人狂時代」や、マービン・ルロイの「仮面の米国」同様、映画的な興奮を与えてくれる名作である。
 

1942年製作 アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:テレサ・ライト、ジョゼフ・コットン、ヘンリー・トラバース、ヒューム・クローニン

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