華氏451 (名作一本)

 文字を読むことが禁止され、色と番号に管理された近未来社会を描くレイ・ブラッドベリ原作のSF映画。人々のもっぱらの楽しみはテレビを見ること。火災事故ゼロ件のこの世界では、消防士(ファイヤーマン)の仕事は、反体制の市民が不法所持している本を見つけ出して焼き払うことである。
 トリュフォーの映画なのに、フランス語じゃなくて英語作品なのが残念だが、随所にトリュフォーらしさは生きている。他の監督が描くようなSF映画とはひとくせもふたくせも違う独特の「見せ方」で描かれ、ことにヒッチコックの影響が大きい。音楽監督にはバーナード・ハーマンを呼び、ヒッチコック映画のような不気味な音楽をバックにして、ほとんどヒッチコックの見せ方をそのまま真似ているかのようである。開巻、消防士が疑わしい家を捜索し、隠してある本を見つけだす緊迫もまさにそうだし、消防署の隊長の描き方に関しては、まるでサスペンス映画の犯人を映しているようなタッチである。ヒッチコック流の見せ方、その空気をそのままSF世界にマッチングさせた手腕と、そこに着目したトリュフォーの洞察力は高く評価する。
 これを見ていると、トリュフォーは、どちらかというとストーリーよりも映像の様式にこだわった監督だということがわかる。見せ方のひとつひとつに芸が感じられ、簡単なストーリーでも、「そうきたか」と見る者をうならせる意表をつくカメラワークとカッティングで見せてくれる。ジュリー・クリスティを真横から撮った構図が、つまり主人公の顔を全く見ていないことを強調するように、ストーリーはおもにカメラの力を借りて語られていく。ラストシーンに関しても、そのアーティスティックなカメラワークが涙を誘っている。
 一番面白いのはロケーションだ。舞台の地形は、ほとんど飾っていないが、きちんとSFらしい世界になっている。おそらく住宅の映像はすべて既存のものを撮影したものだと思うが、閑散とした敷地にぽつんと立つ近代建築の造形が、不思議とそれらしく映ってみえるのである。もっと興味深いのは室内セットである。これも、適度に原色を配色し、近代建築美術っぽい家具を並べているだけの飾らないものだが、そこには生活感が表れており、旧来の曲線を意識したけばけばしいSFのセットなどよりも、こちらの方がよっぽど上手に近未来社会を表現しているだろう。最近のSFに見られるCGでやたらと飾り付けられたセットと比較してみても、「華氏451」の水平線と垂直線だけのしごく一般的な近代建築は、シンプルでありながらも核心をついている。実にセットだけでも、そこに痛烈な社会批判を見てとることができるのだからよくできたものだ。
 これは、書物への愛を描いた作品だと評価されているが、むしろ、テレビへの批判をこめた作品と見るべきだろう。主人公の妻が毎日見ているテレビ番組の内容は、あまりにもつまらない。まるでテレビが人間を洗脳しているようで、住民たちはテレビに毒されている。この社会から逃げ出すことに成功した主人公が、テレビの中では、番組を盛り上げるためのヤラセで死んだことになる。これこそ痛烈なる皮肉ではないか。
 



▲この世界の専業主婦のもっぱらの楽しみは、テレビを見ることらしい。放送されているヤラセ番組の異常なほどのつまらなさは、テレビへの宣戦布告なのか?


▲閑散とした敷地に立つ近代建築物をロケしただけで、あら不思議、こんなにもSFっぽくなってしまうのだ。これだから、映画鑑賞はやめらんない!


1966年製作 イギリス
監督・脚本:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック、ジェレミー・スペンサー、マーク・レスター

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