太陽がいっぱい (名作一本)

Plein Soleil

<フランス/1960年/サスペンス>
監督・脚本:ルネ・クレマン
原作:パトリシア・ハイスミス/脚本:ポール・ジュゴフ
撮影:アンリ・ドカエ/音楽:ニーノ・ロータ
出演:アラン・ドロン、モーリス・ロネ、マリー・ラフォレ

 はじめに
アラン・ドロンの名演技、ニーノ・ロータの郷愁のメロディ・・・。
この映画は僕にとって特別な映画である。
僕はこれで映画を学んだ。これを見て映画の醍醐味を知った。
実は、僕はこの映画のストーリーをほとんど忘れている。
それなのに僕はこの映画がずっと好きなのである。
この映画には、ストーリー以外にも山ほど魅力があるからである。
この映画の良さは感覚的なものでもあるので、
我々は無意識の領域でこれを傑作と理解するはずだ。
実際に描かれている事柄は計り知れない。
これこそ美学かもしれない。
今回は、この映画がなぜ面白いのかを、意識の届く範囲でゆっくりと解説することにした。 


アラン・ドロンはここから変わった
 アラン・ドロン(当時24歳)はこの映画で単なる美形派を抜け出した。この映画はいってみればドロンの独壇場である。
 鏡の前でフィリップの真似をするホモセクシュアルなリプレイ、フィリップを殺して焦るリプレイ、マルジュに嘘をついて汗をかくリプレイ、フィリップの声を真似てマルジュに電話するリプレイ、フィリップのサインを覚えてニンマリ笑うリプレイ、銀行から大金をおろして緊張するリプレイ・・・。ドロンは、自信過剰なようで、少し臆病という両極端で複雑な性格のリプレイを見事に演じている。
 気付いて欲しいのが、フレディが押し掛けてきて、たじろぐリプレイを演じるドロンの目。よく見るとまぶたが痙攣している。ドロンがいかに「リプレイそのもの」だったのかを垣間見られる1シーンである。


友人の人物設定がドラマを引き立てる
 この物語に出てくるフィリップという人物はなかなか面白い人物である。ドラマの設定上、こういう人物を創造したことは成功であった。
 フィリップはリプレイのことにむかついている。つきまとわれて、ちょっと陰険な性格が気に入らない。でも友達同士なので、彼女とのデートにもリプレイを連れていく。こういう気まぐれな生活のキャラクターをモーリス・ロネは好演している。
 リプレイは彼らにくっついているがゆえに、フィリップを妬むのである。そういう青春像がどこか僕らを共感させる。


リプレイの才人ぶりがチャップリン風
 僕はこれを見てチャップリンの「殺人狂時代」を思い浮かべてしまった。意外にも共通項が多いのだ。
 「殺人狂時代」も「太陽がいっぱい」も、主人公は頭の切れる殺人者である。ムッシュ・リプレイも「殺人狂」のムッシュ・ベルドウのように名前を偽って行動しており、嘘をつくのがうまい(リプレイがレストランで警察の後ろで嘘をつくシーンは見ていて嬉しくなる)。
 ときには思わぬシチュエーションに突如ぶつかってしまうが、それも得意の頓知をきかせて何とかかわし、計画を順調に進めていく。刑事が聞き込みにやってきても、口八丁でうまくとぼけて、余裕の表情を見せる。
 2作とも、主人公のその才人ぶりが見所である。リプレイがホテルの一室で偽造パスポートを作ったり、風呂に入ってゆっくりと戦略を練るシーンなどは、静かに才人ぶりを示したシーンで、最近のハリウッド映画に出てくるような派手な天才悪役の人物描写よりも現実味がある。
 それに、やおらタイプライターを打つシーンは、ムッシュ・ベルドウが無表情で金をアッと言う間に数えてしまうシーンを彷彿とさせないか。
 ちなみに、名場面であるサインの練習をするシーンは、「ジャッカルの日」の射撃のシーンと、「タクシードライバー」の銃を組み立てるシーンの雰囲気にも似ている。影響を与えているのだろうか?


編集テクニックでも見せる
 公開当時のフランスではヌーベルバーグが世界各国で認められ、まさに全盛であり、正統派のルネ・クレマンはジャーナリストの間からは古くさいと言われていた。この新作「太陽がいっぱい」は、ヌーベルバーグのスタッフを集めての作品で、誰もがヌーベルバーグへの挑戦と解釈した。クレマンはそれを否定しているが、実際ヌーベルバーグの影響と思われる演出が中には見られるので、それはひとりの巨匠のちょっとした野心だと思っていいだろう。
 とても感心させられるのが、フィルムのつなぎ方である。市場を見学してまわるシーンは、モンタージュ芸術のお手本といっていいだろう。リプレイを不気味な魚や天秤などの被写体と一体化させ、ニーノ・ロータのメロディと相まって、深層心理を比喩する見事なワンシーンとなっている。
 所々でクレマンは、空間を変えずに、時間だけをジャンプさせたりもしているが、これが自然なので流れを乱しておらず、ヌーベルバーグの極端なジャンプカットよりも興味深い。


2回目の殺人も巧い
 リプレイがフィリップを刺し殺すシーンは、かんかん照りの正午(眩しいコントラストの映像が秀逸)に海の真ん真ん中で、胸の中央をブスリとひと突きし、大胆な演出が脳裏に焼き付いて、名場面といえるが、2回目の殺人のエピソードも、地味ではあるものの、よくできている。
 フレディを殺してから後始末するまでの映像は、カメラを腰あたりまで下げて撮影しているようだが(座って撮ったのだろうか?)、構図がなかなかサスペンスフル。
 死体を担いで車まで運ぶ一幕では、階段を下りている途中で、誰かが近づいてくる「足音」が聞こえてくる(音による恐怖)。足音がやんで再び運び込もうとするが、死体の手がぶらりと手すりの外にはみ出ているのが、一階から見える(このショットは観客の緊張を高めるために向けられたショットで、リプレイの主観ではない)。
 やっと運び込むが、死体がハンドルの上に当たってクラクションの音が大きく鳴り響く。このクラクションが素晴らしい。リプレイはかしこいが、性格は根が臆病なので、何をするにしても少しばかりひやひやしている感じが出ているのである。クラクションがなったとき、我々はとっさにリプレイの心理に好奇心を抱いてしまうのだ。これがクレマン流の客引きである。
 同作は、よくあるような、殺されそうになる恐怖を描いたサスペンスではなくて、うまく殺せるかどうかの恐怖を描いたサスペンスといってしまうのも、間違いではない。


食べるシーンにも意味が
 この映画は雰囲気の映画とも言えるが、ところどころにお遊び的といえる映画独特の心理描写が見られるのが見所である。それに気付くたびに、この映画がどれだけ優れた作品なのか、改めて思い知らされるのだ。
 ある日、僕はリプレイの食についてふと興味を持った。何度か見られる食のシーン、こういう些細な行動にしても、クレマン監督は心理描写を忘れなかったと見える。フィリップたちがキスしているのを横で見ながら頬張るハム、フィリップを片付けた後にかぶりつくフルーツ、そしてフレディを殺した後に食べるチキン。リプレイが何を考えているのかを、その食べ方だけで一目で分からせる。この映画はワンショットひとつひとつにいちいち関心せずにはおれないのだ。
構図にも一工夫
 本作は脚本も音楽も役者の演技も優れているが、ドカエのカメラもまた素晴らしく、斬新で巧妙な構図も多数見受けられる。
 一番面白いのが、前景と後景でそれぞれ異なるシチュエーションを同時に見せるテクニック。前景では男と女がいちゃついていて、後景では内気に何もしないでいるリプレイの表情を捉えるカットがあるが、観客の感情を振るわせて見事である。こういう構図はリプレイの部屋に刑事が聞き込みに訪れるシーンなど、あらゆるシーンで活用して効果をあげている。
 ロー・アングルも多用して、カメラをわざと壁に近付けて奥行きを出す演出も素晴らしいが、撮らなくてもストーリーに支障をきたさないようなものなら撮ってないことにも注目してもらいたい。例えば殺人シーンではナイフを刺す瞬間は撮らずに、ナイフのアップショットだけで迫力の映像に仕上げているし、殺した男を運ぶシーンでは足しか撮っていない。構図だけでもサスペンスを盛り上げているのだから頭が下がる。
 ラストのパラソルの構図も印象的である。最高の気分でくつろいでいるリプレイを、素直にカメラは捉えてはいない。このずれたフレーム配置がリプレイ人物そのものを表現している。

(第28号 「名作一本」掲載)

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