生きる (映画史博物館)

問題作「生きる」 「生きる」は娯楽映画としてはもちろんのこと、見終わった後も鑑賞者を大いに悩ませるその深い内容もさること、その映画的な見せ方のひとつひとつが映画の教科書にしてもいいくらい完成されたものである。ユーモアとペーソスを絡めた映画話術、静と動の映画技法、白と黒が織りなす映像美、その全てにおいて奇跡的に調和のとれた日本映画の最高傑作といえる作品である。 まず、いきなり出だしのナレーションに引き込まれる。このナレーションは実におしつけがましく、説教的でさえある。このナレーションの扱い方は、一般的にはまずやるはずのない反則的な手法であるが、そこをあえて試みたところに心をひかれる。それ以降も、物語は至ってユニークな展開を次々と繰り広げ、黒澤は同パターンの見せ方は二度と繰り返さない。風俗街をさまよう映像はすさまじいほどの喧噪感であるし、かつての部下と援助交際するシーンもある種の異様な雰囲気が漂う。あの派手な帽子の色は最後まで何色なのかわからないが、そこが鑑賞者の想像力をかきたてる。映画の中盤で大胆にも主人公を殺し、酔いどれたちの座談会だけでストーリーを進行させる手口にも舌を巻くばかり。しかし何よりも目を見張るのは志村喬の鬼気迫る演技だ。主人公は相当な変わり者である。喋れば必ず言葉がつかえ、瞬きせずにぎょろりと見開いた目からは涙がにじみでている。臭い息まで匂ってきそうだ。ブランコで雪の降る中歌う姿を見ていると、自分は今何をすべきかと、しんみりと考えさせる。今後も死ぬまでつきあっていきたい映画である。

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