チャールズ・チャップリン (巨匠の歴史)

完璧主義者
チャップリンは優れた映画プロデューサーであった。実に製作から監督・脚本・主演そして音楽まで何もかも自分でやっていたのである。自分の会社を興してからは、気に入るまでじっくりシーンを撮り直すという徹底ぶりで、業界随一の完璧主義者と言われるようになった。寡作ながらも発表する作品はことごとく成功しており、「モダン・タイムス」、「独裁者」、「殺人狂時代」といった三大傑作も生まれた。おそらく彼は最初に映画を芸術まで高めた映画作家であった。撮影の技巧にこだわらず、俳優の演技に重点を置いた彼の表現スタイルは、映画芸術のひとつの様式になったのである。

喜劇王
「偽牧師」、「黄金狂時代」、「サーカス」などを見れば、誰しもチャップリンのパントマイム(無言劇)のうまさに唸ってしまうだろう。世の中には星の数ほどコメディアンがいるが、 チャップリンだけが喜劇王と言われているのにはワケがある。チャップリンの喜劇が、ただ人を笑わせるだけではないからである。ユーモアの中にペーソスがあり、愛と怖さがある。ときにはギャグの中に批判的な社会メッセージが込められていることもある。チャップリンは自分のパントマイムだけを信じて、それをずっと貫き通していた。そこに彼の作家性があり、喜劇王たるゆえんがあるのである。

不滅のスター
映画史上でチャップリンほど人々から愛された映画人はいない。拾った子を自分の息子のように育てる「キッド」、盲目の少女のために自分の生活費を惜しんでまで一生懸命働いて献身する「街の灯」、足の不自由な少女に逞しく生きていく勇気を与える「ライムライト」、これらチャップリンの名作は、多くの人々に愛することと生きることを教えてくれた。チャップリンの映画は、映画のあるべき姿形をしていた。彼亡き後も、彼の映画は、朽ちることなく、永遠に輝き続ける。きっと、これからも人々に生きる勇気を与えてくれることだろう。チャップリンは永遠に不滅である。

チャップリンの芸のアイデアはひときわ冴え渡っている。チャップリンのコメディの基本中の基本となる「悲惨な生活の喜劇化」を、今回は塹壕の兵士たちの一日を通して描いてみせた。ビールの栓を流れ弾を利用して開けるなど、これほど見事に戦争を戯画化してみせた映画はかつてなかった。
塹壕は雨が降ると水浸しになる。家族から送られてきた食べ物は、カチカチに固まっているか、腐ってドロドロになってるかのどちらかである。兵士たちの日常というものは、本来ならば悲劇的なものなのだが、チャップリンはそれを次々と笑いの種にしていく。本当に面白い喜劇は悲劇から生まれるものだというのは彼の持論であった。
チャップリンは本当は本作を初の長編映画にすべく製作を進めていた。しかし会社側が納得せず、戦争に関係の無いシーンを全てカットして公開している。結果的にこれは胸のすく痛快戦争コメディとなり、チャップリンの作品の中でも最も目覚ましい成功を収めた。当初チャップリン自身がこれを全く気に入らず、本気でフィルムを捨てようと考えていたという逸話もあるが、これが今では「殺人狂時代」と共に彼の最高傑作とされているのである。




チャーリーと5歳の孤児の親子愛を描いたドラマ。
野心作ともいうべき本作は、それまでの短編にない試みに挑戦している。会社との契約を早く満了させようと適当に作った前作の「一日の行楽」と比べてみてもその差は歴然である。ストーリーからして規模の大きなものを作ろうとしており、積極的にドタバタ路線から脱しようとする意気込みが感じられる。
開巻の一幕などは、映像が暗く、静寂感さえ漂う。本来ならばギャグの合間にさらりと描いたはずの場面を、今回は感傷的にじっくり描いて見せたわけである。
全体的にコメディ性以上にドラマ性が強く、展開がゆったりとしていて、親子愛が作品の基調となっている。ドタバタがなくとも、親と子の愛の光景そのものが笑いと感動になっている。開巻を含めてチャップリンが出ていないシーンが多いのも特徴で、チャップリンもようやく監督として成長した感じである。
本作にはチャップリンが天使になるシーンがある。夢はチャップリンにとってとても重要な意味を持っているが、このシーンほど難解なものはなく、当時の批評家たちを大いに戸惑わせた。
本作は労作でありながら、会社側には理解してもらえなかった。撮影したフィルムは、28万フィート(約50時間)にものぼるが、最終的に6巻(1時間弱)に収められている。




あったようで無かったチャップリン唯一の西部劇である。保安官、駅、賭博場、荒くれ者、撃ち合い、といった西部劇らしいモチーフと、古びた町並みの雰囲気が、他の作品にはないちょっとした見どころである。
主人公は牧師になりすましている脱獄囚である。ひょんなことから教会で説教をする羽目になるが、聖歌隊が陪審員に見えたり、どんな説教をしていいのかわからずダビデとゴリアテの話を実演する。やがて彼は清純な娘と出会い、心を改める。
とても素朴で憎めない犯罪者である。物語の中では悪いことはほとんどやっておらず、切符を買っているのに列車に無賃乗車しようとするあたりに馬鹿正直さが表れている。チャップリンはそんな彼が立たされているシチュエーションのおかしさを引き出して、何度見ても楽しめる人情喜劇に仕上げている。
牧師姿のチャップリンが、服装を替えずして、悪漢の姿に変装するユニークなギャグが見られるのも本作の特長であるが、こういったギャグが受けるのは、チャップリンがもともと道化タイプだからである。チャップリンにとって「扮装」というのは重大なテーマであった。




Actor: Adolphe Menjoe


芸術に理解のない映画会社に嫌気がさしたチャップリンは、1919年、自由な作風で映画を作ることを目的とした映画会社ユナイテッド・アーチスツ社を設立する。
「巴里の女性」はチャップリンにとって初の長編物にして、同社で撮った最初の作品とあって、商業性よりも芸術性を尊重したメロドラマになった。本作からチャップリンは給料をもらう側から払う側になったわけであるが、自分が出演しないで、昔からのパートナーを主役に立たせるという思い切った行動も、自分の会社だからできたことである。本作からチャップリンの作家としての才能は急速に開花していくのだ。
本作の良さは、ずばり空間美である。ほとんどのカットは膝上サイズの水平アングルで、おそらくレンズは標準レンズしか使っていない。ズームもパンも一切せず、カメラはピクリとも動かない。チャップリンはあえてカメラを傾けていないが、そのかわりセットをときどき斜め向きにして役者の前方に配置させている。チャップリンは俳優の動きと室内セットの配置の位置関係が醸し出す空気感に着眼して、実にアーティスティックな映像に仕上げているのである。
セットは絵画、花、彫刻など、数え切れないほど集められ、凝りに凝ったものである。男の部屋のカットでは、机の上に使い古した食器、片隅に薄汚い椅子が置いてあるが、それが女の部屋のカットに移ると、高そうな食器、豪華な椅子へと変化する。セットだけでも登場人物の境遇をうまく対比させているのである。男の部屋のシーンなどでは、部分的に照らす照明技術が功を奏しており、フィルムのコントラストが作品の格調をぐんと高めている。
チャップリンはモンタージュ理論がソ連で確立されるより数年早く、真に優れた映画技法がなんたるかを理解しきっていたように思える。まだ見習いだったプドフキンも本作には痛く感銘を受けたという。ドラマとしてもアートとしてもよくできた本作は、モンタージュとは対照的な「配置演出」の極みとして、いまだに映画理論家たちのかっこうの研究材料となっている。







チャップリン流の映画の作り方とは、きちんとしたシナリオを用意せず、頭の中のアイデアをひとつずつ映像にしていき、最後にそれを一本のストーリーにまとめるというものであった。チャップリンは実に「モダン・タイムス」までそのやり方で映画を作ってきた。仕事を何もかも自分一人でこなす彼だからできた芸当であった。
「黄金狂時代」は、その作り方だからできた傑作である。随所に見られるパントマイムは、先にシナリオがあっては生まれなかっただろう。「飢えのあまり自分のクツを食べる」「山小屋が吹雪に吹き飛ばされる」など、断片的にシーンを発想していき、工夫して組み立てていく。どちらかといえばストーリーは芸を見せるために作られた感じで、見てもらうべきものは何よりもチャップリンの個々の演技である。芸のひとつひとつが若々しく、即興的な面白さがある。ギャグの数でいえば本作は群を抜いており、彼の俳優としてのユーモア&ペーソスの最高峰を示す一本といってよい。初登場のシーン、見るからに危なっかしい崖っぷちをのこのこ歩きながら、ここでチャップリンはほんの一瞬転落しそうな素振りを見せる。この何気ないプラスアルファの演技がチャップリンの芸の醍醐味なのである。
42年には自身のナレーションと音楽を加えて大幅に改変してしまったが、改変版は説明が多すぎるために観客の想像力が膨らまず、映像の魔力が半減した嫌いがある。しかしチャップリンがいったいどういう意図をもって各場面を演出していたのかを詳しいところまで知ることができ、また違った意味で興味深い。もっと詳しく




30歳を過ぎてからのチャップリンの演技は、ストーリーに付随して自然と動いているように見える。
本作はチャップリンの映画の中でも最も躍動的で、理屈抜きに面白い作品である。「昔にドタバタに戻った」と評価されがちであるが、必ずしも悪い意味ではない。ドタバタとは、「追っかけ」など、とにかく見た目の動きで笑わせるコメディのことであるが、本作はドタバタはドタバタでも、ただのドタバタではない。たしかに見た目の動きを重視した即興的なギャグが多いが、昔と違って無駄がなく、洗練されていて、ギャグがきちんと話につながっている。アクションのひとつひとつに理由があって、チャップリンがどんなに漫画ぽくズッコケても、自然に受け入れられるのである。
また、応用も見られ、ドタバタそのものをパロディにしてみせたりもする。一度見せたギャグは二度見せず、二度目ではさらにギャグを別の方向へと膨らましていることにも注目である。チャップリンがライオンの檻に入ってあわや食べられそうになるシーンなどは、ひとつのギャグからもうひとつのギャグを派生させて次々と膨らましており、その熟練した手並みは見事なものである。




Music: "La Violetera"
(音楽を聴くためにはQuickTimeが必要です)




自分で納得いくまで何度も撮り直すという徹底したスタンスで、トーキー隆盛の時代にあえてサイレントで挑み、チャップリンの完璧主義者ぶりをマスコミに認識させた作品である。
チャップリンの長編を前期と後期に分けるとしたら、「街の灯」はどちらに入るのだろうか? とにかく本作はあらゆる意味において他のどの作品よりも異色である。
彼にしては初となるサウンド映画とあって、音楽には並々ならぬ意欲が感じられる。音そのものをギャグとして扱っており、細かいアクションにもサウンドをかぶせたりして、まだ荒削りの段階ではあるが、積極的に実験している。前作のドタバタから一転してバレエ的な演技を重視させているところも、サウンド版ならではである。
この映画のワザは盲目の少女と二重人格の大富豪を登場させたことである。チャップリンの長編では本当の意味で「浮浪者」といえるキャラクターが出てくるのは唯一「街の灯」だけであるが、この浮浪者の見窄らしさが身につまされる。ふつうに装えばいいものを、見栄を張って金持ちになりきるところに本作の愛と怖さがある。
二重人格の大富豪については思いも寄らない発想であるが、その発想が最大限に活かされていることにはほとほと感心である。二重人格ゆえに都合良くストーリーを逆転させられるのだが、チャップリンの逆転は予想以上に残酷だ。
本作の主人公は、他の作品に比べてイタズラぽさがなく、紳士的であり、少女のために献身する姿がただただ感動的である。ことに愛が美化されている。ラストシーンはチャップリン最高の名場面である。これほど美しく、これほど残酷な描写があったか? もっと詳しく




Actress: Paulette Goddard
Music: "Smile"


この作品からチャップリンはおなじみの浮浪者の人格を捨てた。昔と同じ衣装を着てはいるが、明らかにそれは別人物であり、作品そのものも作風からガラリと変わっている。
涙が溢れるほど愛を感じさせる作品である。他の長編にありがちな片想いとは違い、本作ではチャーリーとヒロインは出会ったときからお互いに理解しあう。まだまだ相手は子供であるが、チャップリンは保護者以上の愛をもって接し、ヒロインも黙ってそれに応える。貧しいけれど、二人の同居生活はとても幸せに満ちている。短編時代のチャーリー&エドナの関係と似ているかもしれないが、年の差と愛の温かさが違う。二人が共に生きていくことを誓うラストは、それまでのチャップリン映画とはまったく対照的だ。相手役のP・ゴダードは頭をよしよしと撫でたくなるほど愛くるしい。チャップリンと結婚した女たちはゴダード含め皆幼かったが、本作を見ていると彼の恋愛観がなんとなく想像できなくもない。
社会の機械化を茶化した本作は、スピーカを通して聞こえてくる電気的な声だけがトーキーで、あとはサイレント形式である。チャップリンが初めて喋るシーンがあるが、英語でも何でもない言葉しか喋らず、アンチ・トーキーの姿勢をジョークまで昇華させている。
歯切れのよい場面展開とモンタージュ、シュールなセットデザインと融合するパントマイム、強いメッセージ性とラストのオプチミズムなど、特筆すべきところが多く、全体的なトータルバランスと完成度は他のどの作品よりも高い。




Music: "Overture"
スケールはとにかく大きい。チャップリンの映画では最もボリュームのある作品で、迫力のある娯楽大作に仕上がっている。何よりもスクリプトの圧倒的な力強さには感嘆せずにはおれない。
本作でようやくオールトーキーに乗り出したので、言葉の韻遊びなどができるようになって、映画表現の自由度も格段に上がった。ドイツ語のようなデタラメな言葉で畳み掛けるようにヒトラーの物真似をするあたりなど、観客に新鮮な感動を与えたのに違いない。字幕では気付かないかもしれないが、実は駄洒落も言っているのである。
チャップリンはヒトラーとふつうのユダヤ人の二役を演じて、トーキー流・サイレント流2タイプの至芸を見せてくれる。地球儀とバレエをするシーンなど、チャップリンのパフォーマンスは芸術的といってもいい感さえある。
主人公二役を瓜ふたつの人間に設定してしまうアイデアたるや、実に大胆である。2人が似ていることは物語の進行上ほとんど関係がなく、チャップリンがナチス側とユダヤ側の両方の立場を自分で演じるための根拠でしかない。しかしそれを強引に違和感なく作品に溶け込ませた才能は天才的としか言えない。
終盤ではストーリーを通り越して、ついに作家性が表へと突き出る。物語はとりあえず忘れてもらうことにして、ヒトラー役でもユダヤ人役でもないチャップリン本人がカメラに向かって長々と大演説をぶつのである。これはジャーナリズムとしての映像メディアの完成形を決定づけるものであり、作家としてのチャップリンのパワーに満ちあふれた、映画史上非常に類い希な名シーンである。
本作はアカデミー賞では最優秀作品賞にノミネートされ、日本では製作から20年後の公開でありながらもキネマ旬報のベスト・ワンを勝ち取った。





Music: "A Paris Boulevard"
 
これはチャップリンの新境地である。自ら「殺人の喜劇」と銘打ち、殺人をビジネスと考えた一人の中年紳士の半生を、叙事詩的に描いた。
彼にとってこれはある種の賭けだったのかもしれない。これまで色とりどりのギャグを生み出してきたものだが、今回は思い切ってギャグの質感から何までずいぶんと変えている。ブラックぽさが濃厚になった感じである。役どころも以前の道化的な役から、粋なフランス紳士へとイメージチェンジしている。それでもパントマイムは健在で、ズッコケも相変わらずうまいが、今回は女の口説きゼリフと落ち着いた身振りに芸が感じられる。言葉だけで女をだまし、あの手この手で金を奪ったあげく、平気な顔で殺してしまう彼のこの知能犯ぶりは本作の最大の見どころである。
シナリオの構成は、整理されてよくできたものである。チャップリンがこんなにも話術にこだわったのは初めてのことである。殺人の喜劇でありながら殺人のシーンがまったくなく、「どうやって殺すか」というシチュエーションのユーモアに重きを置いている。動的なアクションは抑えられ、ストーリーのウェイトとチャップリンの芸のウェイトが同じバランスで展開していく。一時的にドッと笑わせるのではなく、ひとつのネタの持続時間が長めである。観客にギャグの意味を考えさせる余地を与え、何かをほのめかして、それに気づかせて笑わせるという奥深さである。
本作が何より素晴らしいのは「映画的」であるということ。人物Aと人物Bをカッティングで軽快に見せる技法、シンボル的な映像で段落を区切る技法。その妙技は、他のチャップリン映画では見られない。
物語、演技、編集、すべてが至れり尽くせりの本作は、映画史上の最高傑作と称するにふさわしい一本である。





Actress: Claire Bloom
Actor: Buster Keaton
Music: "The Sardine Song"


40年以上もコメディアンとして活躍してきたチャップリンが、ついに来るところまで来たという感じである。老コメディアンが自殺をくわだてたバレリーナに生きる勇気を与えるという献身的な姿勢は、他のチャップリン映画に通じるが、ただし本作はそれまでの作品とは性格が異なる。舞台は初めて故郷ロンドンに設定しており、チャップリンは素顔に近い顔で出演。後半からはまったく立場が逆転して、チャップリンが尽くされる側に回るのである。いうなれば本作はチャップリンの喜劇役者としての心情を吐露した作品であり、彼のヒューマニズムの集大成になっている。
チャップリンが色々と人生訓を語るところは、その説教臭さがかえって魅力である。悦楽も悲哀もいかにも臭いものであるが、その臭さを落ち着き払って首尾一貫させているところに、この作品の美学がある。それは喜劇王チャップリンだから許される誰にも真似できないものである。
場面と場面の合間に見せるノミのサーカスを代表する19世紀調の古典的なボードビルは、歌と踊りももちろん素晴らしいが、演劇的なカメラワークによって醸し出される独特な空気感が、ある種の映像詩になっている。
チャップリンが20年ぶりに得意の酔いどれぶりをみせているところも興味深い。中でも開巻のパントマイムのディテールはうまいの一言である。芸にもかなり貫禄がついている。
本作が完成した直後、チャップリンは非アメリカ的として、アメリカから追放されてしまう。そのため本作はアメリカでは20年間もお蔵になるのだが、海外では絶賛され、日本ではチャップリン映画としては最も人気の高い作品となった。テーマ曲はあまりにも有名だ。もっと詳しく




Music:"Weeping Willows"
それまでのチャップリンの映画は、舞台となる地域も主人公の国籍も大して重要なことではなかった。イギリス人であるチャップリンは、アメリカに30年居座りながらも市民権を取ろうとせず、自分のことを無国籍人間だと言っていたのである。本作は、そんなチャップリンが初めてアメリカを意識した作品である。ただしこれはアメリカ映画ではない。アメリカに対するアンチテーゼである。
本作の見どころは、チャップリンがやりたい放題やっていること。ストーリーはやけくそかと思えるほど支離滅裂であるが、要所要所に込められた直球勝負の風刺は色濃く記憶に残る。整形手術、ロックン・ロールなど、アメリカの流行を目の当たりにしてたじたじになるチャップリンの痛烈な皮肉である。映画の出来栄えにこだわるよりも、自分の主張を伝えることに専念し、アメリカを笑い者にした心意気には感動さえ覚えてしまう。67歳にしてこのせいせいさである。
本作にもヒロインは登場するが、今までとはまるでタイプが異なる。演じるドーン・アダムズは綺麗だが、チャップリン映画のヒロインに共通する純朴さがまるでない。チャップリンがこのヒロインを浮気で俗っぽく描いたのは、当時のアメリカ映画に描かれている女性像への批判ともとれる。
本作は「私家版」みたいなものである。よって、チャップリンとアメリカの関係を或る程度知っておかなければ、本作を享受することはできない。そこが敗因であった。





Actor: Marlon Brando
Actress: Sophia Loren
Music: "This is My Song"


この映画を発表した年、チャップリンは78歳になっていた。25歳で監督デビューしてから、キャリアは実に53年である。53年も映画を作り続けた監督はチャップリンしかおらず、これは世界記録である。しかもこの後にも自作の古い作品に音楽と自分の歌をつけて再編集してリバイバル公開するなど、音楽家兼プロデューサーとしての活動は続けており、新作の企画も映画化目前まで進んでいたのである。「私にとって映画を作ることは生きることと同じだ。私は生きたい」と晩年も語っていた。チャップリンは人生のすべてを映画に捧げた真の映画作家だった。
「伯爵夫人」は30年前ボツにした企画をようやく実現させたものである。出来栄えは、チャップリンという大監督にしてみれば、必ずしも良いものとは言えなかった。この時代にはあまりにも普通すぎる(=古すぎる)内容だったのである。チャップリンのユーモア&ペーソスの健在ぶりを示したであろうはずの作品が、チャップリンの体力の衰えを示す結果になってしまったのである。だいたい本作はチャップリン自身のプロデュースでもなければ主演でもないので、最初から積極性が足りないのである。
しかし劇中ところどころに発見できる「チャップリンらしさ」は微笑ましいものであった。進歩がないというとそれまでだが、懐古映画と考えるとじんとくる。この年にしてまだチャップリンのコメディが見られるというだけでもありがたいものである。しかもフィルムは長編10作目にして初のシネスコのカラー、主演がソフィア・ローレン、マーロン・ブランドというビッグスターである。見てみたくなるのも当然のことだ。言ってみれば本作は「チャップリンが本当に好き」という人に贈るギフト映画なのである。もっと詳しく

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