ジョージ・ルーカス (巨匠の歴史)
「スター・ウォーズ」に魂を売った実業家
ジョージ・ルーカスはプロデューサーとして、様々な映画を企画製作し、また実業家としても知られ、「成功者」の代名詞のような存在であるが、ルーカス本人にしてみれば、それは苦しみとの戦いである。
77年と83年に行われたローリング・ストーン誌によるジョージ・ルーカスへのインタビューの全容が、先日SIGHT誌(ロッキング・オン)21号で紹介されたこと。それに続いて「スター・ウォーズ」の改変版DVD-BOXが発売され、特典にメイキング映像がついていたこと。これにより、ようやく今になってルーカスの人間像が浮き彫りになった。「アメリカン・グラフィティ」発表後、成功に疲れ切ったルーカスは、映画監督業を引退し、隠居を考えていたが、最後にもう1本だけSF映画を作ろうと考え、ILMを設立。「2001年宇宙の旅」の正反対のエポックSFを目指すも、製作期間も予算も「2001年」に比べれば惨めなものであった。ところが新作「スター・ウォーズ」は、発表されるや大当たりし、興行記録を塗り替え、ルーカスはもうどこにも逃げられなくなった。「スター・ウォーズ」に魂を売り、毎日その呪縛に苦しめられたルーカスは、寝ても覚めても「スター・ウォーズ」のことしか頭になく、新作のストーリー案や、ビジネス案がめまぐるしく頭をかけめぐっていた。83年のインタビューでは「あの映画が当たらなければ幸せだった」とまで語っている。
製作開始から「スター・ウォーズ」をビジネスにすることは念頭にあり、キャラクター商品など、あらゆるところで儲けようと考えていたところが資本家ルーカスらしいところで、2作目、3作目ではプロデューサー業に専念しているのもそれらしい。続編で監督を交替することは77年のインタビューでも明言していたことで、3作ともまったく違った色合いの映画にすることが目的であった。しかし83年のインタビューからは極度の疲れが感じられ、単に自分が演出する余裕がなかったとも推し量れる。結局は2作目3作目でも一番忙しかったのはルーカスなので、「スター・ウォーズ」シリーズはすべてルーカスの監督作品とみるべきだろう。
新三部作の発表までには16年もブランクがあるが、再び自らメガホンを取っている。98年のインタビューでは「他人にいじくられるのが嫌だから自分で作る」といっていたが、心境の変化がうかがえる。「スター・ウォーズ」はルーカスにとってはすでにファンのための映画ではなく、自分自身のコンプレックスや不満を充たすための映画となってきているのは事実である。77年の映画史に燦然と輝く名作をあとから作り直し、97年度の映画として再発表するなど、非難の的ともなったが、それでもルーカスは改変を拒まない。77年のインタビューのときからすでに「もっとお金をかけて、すべてを撮り直したい」とも言っていたので、歴史的作品としての「スター・ウォーズ」であることよりも、自分本位の「スター・ウォーズ」であることを望むルーカスはどうしてもここに見切りをつけられなかった。その苦しみから、作品を経るごとにパワーが衰えているところは観客たちみんなが気づいていたことだ。
新三部作はCGゴテゴテの作品。フィルム撮影すらやめてしまった。ルーカスは「俳優はいずれいなくなる。すべてCGで表現できる」と断言したこともあり、常に特撮技術の最先端を見据えていたが、シリーズを大作にしようと無理に背伸びしているところが旧三部作のファンをがっかりさせた。しかしそれでもあくまでルーカスは我が道を行く。
「スター・ウォーズ」には、とくに原作はない。ストーリーも撮影中に考えていったものである。だから1作目はルークとダースベーダーが親子というとってつけたような設定もなく、単純に娯楽性を追求した1本の独立したSF映画として発表されたものだった。これがいつしか「エピソード4」という設定になり、それからルーカスはひたすらこのシリーズを壮大なサーガにしよう試行錯誤を繰り返していった。一時期「スター・ウォーズ」は全部で9作品になるということで認識されていたが、それをだいぶ後になってルーカスは否定し、「ジェダイの帰還」を最後の作品とすることにした。それまでファンにとっては「まだ続きがある」という期待があったのだが、不評だった「ジェダイ」をいきなり終章に決めつけたところにも、ファンにはとまどいがあった。ルーカスのそれに対する返答は、2004年のDVDで、ラストシーンを作り直したことに表れている。彼のしてきたことの真偽が問われるのは「シスの復讐」の内容にかかっている。
1944年カリフォルニア州生まれ。南カリフォルニア大学で映画を学び、いくつかの短編を制作。70年、学生時代に作った作品をもとにした長編「THX-1138」でプロ・デビュー。73年、低予算短期間で作った「アメリカン・グラフィティ」が評判になり、77年「スター・ウォーズ」を大ヒットさせる。以後はプロデューサー、実業家として活動。「インディ・ジョーンズ」、「タッカー」などを製作。75年に設立したインダストリアル・ライト&マジック(ILM)は世界一有名な特撮専門スタジオである。
ジョージ・ルーカスはプロデューサーとして、様々な映画を企画製作し、また実業家としても知られ、「成功者」の代名詞のような存在であるが、ルーカス本人にしてみれば、それは苦しみとの戦いである。
77年と83年に行われたローリング・ストーン誌によるジョージ・ルーカスへのインタビューの全容が、先日SIGHT誌(ロッキング・オン)21号で紹介されたこと。それに続いて「スター・ウォーズ」の改変版DVD-BOXが発売され、特典にメイキング映像がついていたこと。これにより、ようやく今になってルーカスの人間像が浮き彫りになった。「アメリカン・グラフィティ」発表後、成功に疲れ切ったルーカスは、映画監督業を引退し、隠居を考えていたが、最後にもう1本だけSF映画を作ろうと考え、ILMを設立。「2001年宇宙の旅」の正反対のエポックSFを目指すも、製作期間も予算も「2001年」に比べれば惨めなものであった。ところが新作「スター・ウォーズ」は、発表されるや大当たりし、興行記録を塗り替え、ルーカスはもうどこにも逃げられなくなった。「スター・ウォーズ」に魂を売り、毎日その呪縛に苦しめられたルーカスは、寝ても覚めても「スター・ウォーズ」のことしか頭になく、新作のストーリー案や、ビジネス案がめまぐるしく頭をかけめぐっていた。83年のインタビューでは「あの映画が当たらなければ幸せだった」とまで語っている。
製作開始から「スター・ウォーズ」をビジネスにすることは念頭にあり、キャラクター商品など、あらゆるところで儲けようと考えていたところが資本家ルーカスらしいところで、2作目、3作目ではプロデューサー業に専念しているのもそれらしい。続編で監督を交替することは77年のインタビューでも明言していたことで、3作ともまったく違った色合いの映画にすることが目的であった。しかし83年のインタビューからは極度の疲れが感じられ、単に自分が演出する余裕がなかったとも推し量れる。結局は2作目3作目でも一番忙しかったのはルーカスなので、「スター・ウォーズ」シリーズはすべてルーカスの監督作品とみるべきだろう。
新三部作の発表までには16年もブランクがあるが、再び自らメガホンを取っている。98年のインタビューでは「他人にいじくられるのが嫌だから自分で作る」といっていたが、心境の変化がうかがえる。「スター・ウォーズ」はルーカスにとってはすでにファンのための映画ではなく、自分自身のコンプレックスや不満を充たすための映画となってきているのは事実である。77年の映画史に燦然と輝く名作をあとから作り直し、97年度の映画として再発表するなど、非難の的ともなったが、それでもルーカスは改変を拒まない。77年のインタビューのときからすでに「もっとお金をかけて、すべてを撮り直したい」とも言っていたので、歴史的作品としての「スター・ウォーズ」であることよりも、自分本位の「スター・ウォーズ」であることを望むルーカスはどうしてもここに見切りをつけられなかった。その苦しみから、作品を経るごとにパワーが衰えているところは観客たちみんなが気づいていたことだ。
新三部作はCGゴテゴテの作品。フィルム撮影すらやめてしまった。ルーカスは「俳優はいずれいなくなる。すべてCGで表現できる」と断言したこともあり、常に特撮技術の最先端を見据えていたが、シリーズを大作にしようと無理に背伸びしているところが旧三部作のファンをがっかりさせた。しかしそれでもあくまでルーカスは我が道を行く。
「スター・ウォーズ」には、とくに原作はない。ストーリーも撮影中に考えていったものである。だから1作目はルークとダースベーダーが親子というとってつけたような設定もなく、単純に娯楽性を追求した1本の独立したSF映画として発表されたものだった。これがいつしか「エピソード4」という設定になり、それからルーカスはひたすらこのシリーズを壮大なサーガにしよう試行錯誤を繰り返していった。一時期「スター・ウォーズ」は全部で9作品になるということで認識されていたが、それをだいぶ後になってルーカスは否定し、「ジェダイの帰還」を最後の作品とすることにした。それまでファンにとっては「まだ続きがある」という期待があったのだが、不評だった「ジェダイ」をいきなり終章に決めつけたところにも、ファンにはとまどいがあった。ルーカスのそれに対する返答は、2004年のDVDで、ラストシーンを作り直したことに表れている。彼のしてきたことの真偽が問われるのは「シスの復讐」の内容にかかっている。
1944年カリフォルニア州生まれ。南カリフォルニア大学で映画を学び、いくつかの短編を制作。70年、学生時代に作った作品をもとにした長編「THX-1138」でプロ・デビュー。73年、低予算短期間で作った「アメリカン・グラフィティ」が評判になり、77年「スター・ウォーズ」を大ヒットさせる。以後はプロデューサー、実業家として活動。「インディ・ジョーンズ」、「タッカー」などを製作。75年に設立したインダストリアル・ライト&マジック(ILM)は世界一有名な特撮専門スタジオである。