ジャン・リュック・ゴダール (巨匠の歴史)

私はもう絶対に商業映画を撮らない。体制の中では政治映画は撮れないとわかったからだ。
現代人におけるゴダールの位置づけ
 なにゆえゴダール(フランスの映画監督・映画理論家)は人気があるのか。デビュー当時から若者たちや批評家たちに支持され、現在もその人気は絶えない。むしろファンの数は増えていくばかりだ。ゴダールは、性格としては陰気な方で、とても友達がいるような人物ではなかったと言われているが、映画となると、そのジャンルごった煮の自由奔放で過激な作風が、時代を経ても現代の若者たちを魅了してやまないのである。ゴダールはこう言ったことがある。「私が死ぬ時、映画も死ぬ」・・・。ひょっとすると現代人は、ゴダールに本当の映画の価値を見出しているのかもしれない。
ゴダール映画について考えた二、三の事柄
 そもそもゴダールはなぜ映画男になったのか。時代がゴダールを映画男にさせたのではないか。ゴダール映画は常に時代と関係していることからも、それは間違いない。ゴダールが編集ラボラトリーのバイトに就いたとき、それがちょうどパリ開放後であったので、アメリカ映画が山のように入ってきた。ゴダールは毎日のようにどっぷりと映画漬けになり、やがて「カイエ・デュ・シネマ」誌に映画評を書くまでになる。彼はチャップリンやホークスといった娯楽映画を高く評価し、フランス映画を否定した。B級映画に対する興味も深まり、それが高じて自身もようやく映画製作に取りかかるが、最初の長編「勝手にしやがれ」のスタイルは、他の作家のそれとは明らかに次元が異なり、従来の映画形式を打破するほどの意欲作であった。隠しカメラを使うなどして、実際に路上で即興演技をさせて仕上げた作品だが、場面は途中でずたずたにカットされ、物語という時間の形式そのものを破壊しており、それはより「映画」を意識させた。滑稽とアマチュアリズムとわざとらしさ満ちた同作は映画における革命であり、ヌーベルバーグという映画傾向を生み出すこととなる。
 ゴダールは常に革命家であった。以後もゴダールは物議を醸す問題作を勢力的に次々と放ち続ける。その作品数は実験映画やVTR映画など幾度も寄り道を重ね、うなぎのぼりに増えていく。この革命精神が、後の映画に政治色を濃厚にもたらす結果となる。
 彼の初期作品の本質は、物語性よりも独創的かつ刹那的な映像と音響にあると言え、特徴的な性格を持つ登場人物たちの人生を、観客たちが補完し考えることで、映画全体のムードに浸れるというようなものであった。映画からは、どことなくゴダールの女性不信の思いが表れているような気がしなくもない。
 60年代後期からはもっぱらが政治映画。男女が政治について語り合う「中国女」を始め、メッセージ性がことさら強くなり、ゴダール自身の考えが、役者の口を通じて突然に発せられるようになる。毛沢東主義に傾倒していたゴダールは、五月革命のとき、68年度カンヌ映画祭の会場で造反、セレモニーを中止させたこともあった。それがきっかけとなり、ゴダールは商業映画から撤退、純粋にプロレタリアの立場に立って政治映画を撮るため、ジガ・ベルトフ集団を結成し、ますます破壊的な映像革命を巻き起こしている。

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