100年前のクラシック映画から映画史を読み解く


映画は2回見て初めてその良さがわかる (コラム)

映画は2回見て初めてその良さがわかる

 

 



 映画は2回見てみなければわからない。先日「トゥルーマン・ショー」を久しぶりに見て改めてそう思った。この映画を初めて見たのは6・7年前だったかな。1回目もなかなか面白かったのだが、今回久しぶりに2回目を見て、本当に心から感動した。後半では初めて泣きそうになったくらいだ。1回目では僕はまだこの映画のすべてはわかっていなかったようだ。今なら五つ星をつけてもいい。そもそも映画の評価なんてものは頭の中でころころ変わるから、点数をこれだと定めるのがだんだんバカらしくなってきた。

 「トゥルーマン・ショー」は、自分の生活のすべてを隠しカメラで24時間テレビ中継されているトゥルーマンという男の話だ。自分以外の人間は親戚から会社の上司まですべてが俳優に演じられた偽物である。彼の身の回りで起きる出来事も何もかも仕組まれたもので、そこにあるものすべてが作りものである。しかし彼だけはそれに気づいていない。彼だけがそこに生きて、自分の人生を送っているのだ。

 監督はピーター・ウィアーだが、これは脚本家アンドリュー・ニコルの映画といった方がいいだろう。ニコルの映画はアイデアがいつも斬新だが、その独自のファンタジーの上に、全人類に共通する自我などが象徴的に描かれていることに定評がある。公開当時はニコルの名は物を言わなかったが、現在はウィアーのネームバリューを超えそうな勢いだ。

 「トゥルーマン・ショー」の登場人物は大きく4種類に分けられる。1、トゥルーマン本人。2、トゥルーマン・ショーのキャストと裏方。3、トゥルーマン・ショーを見ている視聴者たち。4、トゥルーマンの本当の恋人。この4種類の人間たち、個人と群衆の位置関係が絶妙である。特にエド・ハリス演じる番組製作者の描き方がいい。トゥルーマンが生まれたときから彼のことをずっと見守ってきたので、彼のことは息子のように可愛いのだが会いたくても会えない。テレビ画面に映っているトゥルーマンの頭をなでるところには言い様のない感動がこみあげてくる。

 この映画は、予備知識なしに見ると、始めの部分は登場人物が皆挙動不審で、いまいち話の意味がよくわからない。トゥルーマン本人が自分の身の回りの出来事に疑問を抱いているのと同じように、映画を見る人もトゥルーマンの身に何が起きているのだろうと疑問に思って見ることになる。中盤になってから、ようやくトゥルーマンが世界テレビ中継されていることがわかって、やっと「なるほど」と言える内容である。この映画は2回目を見たときが1回目を見たときの数倍は面白いが、その理由は、1回目ではトゥルーマンの主観になって見せられるのに対し、2回目は始めっからトゥルーマンを客観視することができるからである。そうなると1回目と2回目とでは、ずいぶんと作品のエモーショナルな部分も変わってくるだろう。また、ジム・キャリー、ローラ・リニー、ポール・ジアマッティなど、出演者たちやスタッフのその後の活躍ぶり、キャリアなどからも、過去のこの作品の印象は変わってきてしまう。

 だから僕は、映画は間をあけて2回見なければ、本当にわかったことにはならないと思うのだ。逆に言うと、1回目はすこぶる面白かったのに、2回目はつまらない映画だってある。もしかしたら、その時々のストレスも関係するかもしれない。以前「トゥルーマン・ショー」を見たときは、僕は失業中で一種の神経衰弱状態だったので、イライラしていた。今は仕事も順調だし、プライベートでは仕事のことはこれっぽちも考えずに趣味に没頭しているので、ストレスもほとんど感じていない。今の僕はゴダールだろうがジェリー・ブラッカイマーだろうが、何を見てもバカみたいに面白いから、6・7年前に見てつまらないと思った映画も、今なら大いに楽しめるような気がする。

 僕も学生時代は映画館の入場料金が惜しかったので、映画館に行くたびに同じ映画を続けて2回も見ていたけれども、社会人になってからはお金よりも時間の方が惜しくなったので、ほとんどの映画は1回しか見ていない。1回見ただけでのうのうとレビューを書くのもどうかという気にもなってくるが、正直にいうと、2回見る余裕があるのなら、別の映画を見たいのが本音だ。だから1回だけで評価を決めるのは仕方のないことだけれど、でも、2回見ようという気持ちは、忘れないでおきたいものだ。

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