100年前のクラシック映画から映画史を読み解く


過剰広告に思いをはせて (コラム)

過剰広告に思いをはせて



 予告編、ポスター、チラシなどの広告は、映画を売る上では必要不可欠なものである。広告の第一印象や、世間の評判を念頭においてから映画を観るのは、映画ファンにとっては当たり前のことである。
 配給会社は、広告を作る時あるひとつのイメージを考えて、それを重点においた宣伝を展開する。例えば、「E・T」での少年の指と異星人の指があわさるイメージや、「七年目の浮気」でのマリリン・モンローのスカートが舞い上がるイメージである。両者とも、そのイメージが本編上の重要なシーンに使われているわけではないが、作品の内容を的確に表しており、とてもうまい広告である。
 ときどき配給会社は宣伝方法を誤ることがある。「ビッグ・フィッシュ」の広告イメージは一面を覆い尽くす水仙の花である。この広告を見て、大抵の人が恋愛映画を想像した。そのせいで、それを期待していた女性客にはあまり受けなかったのだという。かといって、この映画の広告に、もしも大きな魚のイメージを使ったとしたら、ただのマニア向けの映画として終わっていただろう。これは観客を裏切ることになるが、恋愛映画のフリをした方が、より多くの客を集めることができると見込んでの宣伝戦略である。むしろ「ビッグ・フィッシュ」は男性客に評判が良かった。男性客は良い意味で期待を裏切られたのだ。
 「ターミナル」は、客にお涙頂戴映画のフリをしていることがわかる。同作のアメリカ版のポスターは秀逸で、往く当てもなくたたずむトム・ハンクスの姿が、いかにもコミカルな人情劇を期待させ、内容に偽りのない広告になっている。ところが、日本のポスターでは、今にも目から涙があふれてきそうなトム・ハンクスの顔写真が使われている。これではどうみても泣きを期待せずにはいられないが、「ターミナル」はそのような映画ではない。
 「A.I.」は、アメリカでは当たらなかったが日本では当たった。アメリカの宣伝では哲学的な面ばかりが強調されたが、日本ではこれを愛の映画として売り込んだから成功した。売り込み方が成否に関わるのである。


 一般の観客は、わざわざ映画館まで行って、お金を払って映画を観るわけだから、映画を観る前に、何かしら期待を抱くものである。映画が期待以上だったときの感動ときたら、たまらないものがあるが、もしそれが期待以下の内容だと、ひどく落胆する。
 期待しすぎるのも禁物である。たまに自分では観たくもないものを他人から強引に勧められて、しぶしぶ観に行った映画が案外と面白かったりするが、これは期待していない映画ほど想像以上に良かったと錯覚するからである。しかし客に期待させなければ商売にならないので、どうしても広告は過剰表現にならざるをえない。
 深夜時間の通販番組は表現が大袈裟である。実際に買ってみたら「なぁーんだ。こんなもんか」というものが少なくない。でも客に欲しいと思わせなければ元も子もなく、売る方も必死で商品をアピールしてくるわけである。映画の宣伝もこれと同じこと。厳しい競争を勝ち抜くためには宣伝が決め手となる。「アカデミー賞最有力」という宣伝文句もただのハッタリであるが、配給会社はとにかくこうして観客の気を引きつけるために、それこそ涙ぐましい努力を続けているのだ。

 以上、今回のコラムでは全くとりとめもないことを書いてしまったが、僕が一番言いたかったことは、本編を観ることも楽しいことだが、本編を観る前に予告編を見て期待を胸に寄せ、その高揚感に浸るのも、またひとつの映画の楽しみ方だということである。予告編と本編のギャップについて語り明かすのも一興だ。いたるところに映画の広告があふれている今日では、観たい映画がありすぎて、嬉しい悲鳴がでるところである。

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