100年前のクラシック映画から映画史を読み解く


相手は普通のお客さん (コラム)

相手は普通のお客さん

 映画監督を夢見る若き映像作家のタマゴたちのほとんどは勘違いをしている。
 「いい映画は芸術的センスさえあればいい」
 「批評家をうならせる映画を作ってみせる」
 そんな気持ちで映画を作っている。ちょっと高尚な芸術家を気取りすぎてないかい? 青二才・インテリというあだ名がピッタリだ。

 映画は感性だけでは撮れない。
 もし撮れたとしても、それは紛れであり、二度や三度は続かない。
 それと、あくまで映画を見るのは普通のお客さんだ。批評家受けを狙ったところで、一般層が楽しめなければ真の傑作とはいえない。

 若い人は、よく芸術的な作品を作ろうとして、美的カットをいっぱい見せつけようとするが、ただ美しいだけの映像ばかりでは、観客は5分と見てくれない。
 アーティスティックな映像を並べたところで、それは単なる写真の集まりでしかなく、お世辞にも面白い映画とは言えない。

 自分でも芸術的と思えるカットが撮れたから、このカットは残しておこうとか、このカットは他のカットの5倍も手間がかかったから、もっと長く見せようとか、そういうのは青二才の自己陶酔以外の何でもない。自信を持つことは大切だが、うまいカットが撮れただけで自分に才能があると勘違いするのはナンセンスだ。
 自己陶酔は、良い作品を作るための敵なのである。

 アクション映画を作りたいからアクション映画しか見ない人がいる。前衛的な映画を撮りたいからといって芸術映画ばかりにこだわる人がいる。そして、映画監督(映画評論家でも同じことだ)になりたくて、映画だけをひたすら研究している人がいる・・・。
 彼らはいわゆるマニア・オタクの部類に入る特別な人たちであるが、彼らが「普通のお客さん」の存在を忘れてしまっているのは惜しいことである。

 映画制作にせよ、映画批評にせよ、見る(読む)人はあくまで普通の人だということ。それが今回のコラムのテーマである。
 今回のコラムは、僕自身に対しての戒めとして書かせてもらいました。

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