アンドレイ・タルコフスキー (巨匠の歴史)

映画を詩として捉えた巨匠
Andrei Tarkovsky (1932~1986)
●ソ連の映像詩人
 タルコフスキーには熱烈なファンが多い(私もその1人である)。地味な監督で、作品も非常に少ないのだが、ここまで人気を獲得できたのは、彼が映像の詩人だからであろう。彼は映像を詩のように表現した。それも「水」や「火」など、独特なモチーフを使って。とにかくその映像感覚には驚くばかりである。ただの水も、彼の手にかかればただじゃなくなる。映像に無限の詩が刻まれるのだ。「僕の村は戦場だった」、「鏡」などで見られる詩のようなイメージは、他の映画にはないタルコフスキーだけの映像感覚である。この感覚に映画ファンたちは陶酔したのである。

●一本一本精魂込めて
 タルコフスキーは、学生時代から映画を撮り続け、生涯をかけて映画監督としてありつづけていたのに、寡作であった。一本一本を精魂込めて作るため、1本につき最低3年は時間を費やしてしまうのである。その点、作品の完成度は高く、ほぼ全ての作品が映画祭で賞を受賞している。

●たった一言のストーリー
 タルコフスキー作品はどれも長尺だが、ストーリーは一言で説明できるものばかりだ。この一言だけでも、実に独特な発想力がある。
 「ストーカー」は、「突如現れた不思議な空間”ゾーン”をめぐる物語。そこでは人の願いが何でも叶うと言う」。
 「惑星ソラリス」は、「惑星”ソラリス”の探査に送り込まれた学者の物語。”ソラリス”では、人の潜在意識が実体化してしまう」。
 「ノスタルジア」は、「狂人に”世界の救済をかけて、ろうそくの火を消さずに、湯治場を横断しろ”と頼まれた詩人の物語」。
 一言で説明できるストーリーを、タルコフスキーは映像詩だけで見せていく。
 彼の映画はどれも難解なので、やたらとワンショットが長く感じてしまう。台詞も少なく、動きも少ない。しかし映像から感じ取れる詩は計り知れず。彼の映画はもっぱら感覚的であり、味わい方は自由である。よって、作品はじっくりと落ち着いて見られるわけであるが(じっくりと落ち着いて見なければいけない映画でもある)、この重厚な詩的雰囲気がタルコフスキー映画の醍醐味なのかもしれない。

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