小説は映画とは違う (コラム)

 

 新潮カセットブックとかいうのがあったような気がする(違ったらすまん)。小説を朗読した奴をテープに収めてある奴だ。朗読する小説はだいたいが短編から中編。とはいっても朗読時間は相当長い。僕もこれに興味があって、「老人と海」の朗読カセットを買ったことがある。チャールトン・ヘストンが「かなりの早口」で朗読していたが、朗読時間は2時間22分と長時間に及んでいた。「老人と海」は短編小説だが、それでも全部読もうと思えば、最低でも2時間半かかるというわけだ。

 何を隠そう、僕は小説を読むのが大の苦手で、今まで最後まで読めた本など5冊もない。とはいってもそのうち半分は、読み終えるまでに各1年以上も時間を費やしてしまっている。3ページも読めば頭が痛くなってやめてしまうような集中力のない男なので、なかなか先へは進めない。すらすらと読めた本といえば「オズの魔法使い」くらいだろうか。あの本だけは1週間で読めた。英語を勉強していた頃はディケンズなどを原書で何冊か読んだことがあるが、読書というよりは英語の勉強だったので、本の中の物語を純粋に楽しんだとは言えまい。だから僕が自信を持って映画と小説を比較できるのは、「オズの魔法使い」の1作だけなのである。総合映画サイト管理者としてはまことに恥ずかしいことではある。

 ところで「オズの魔法使い」だが、映画も小説もどちらとも面白かった。優劣は関係ない。それぞれが全く違う内容だったので、比較できなかった。
 映画には映画の良さがあった。主題歌の「虹の彼方へ」に感動したし、ジュディ・ガーランドの初々しい表情に笑みがこぼれた。
 小説には小説の良さがあった。魔法の世界を自分で想像しながら、はらはらどきどきした。映画にはなかった冒険がいっぱい描かれていて、しかもかなり細部までこだわってあった。

 なんでこんなことをつらつら書いたかというと、小説と映画が明らかに違う芸術だということを言いたかったからだ。この問題については、僕も5年以上取り組んでいるのだが、未だしっくりくる答えを出せないでいる。
 例えば、「心の旅路」や「蜘蛛女のキス」の原作は、誰がしゃべっているのか読者にわからない。だからその後の展開に驚きがあった。ところが映画では誰がしゃべっているのかは見ればわかる。その時点で小説と映画は表現の仕方が異なる。

 小説の可能性は大きい。映画の最大の売りである派手なアクション・シーンも、大掛かりなセット演出も、小説は文章だけで表現することができる。それは読者の空想力に委ねたものだが、だからこそ小説は面白いのだろう。今まで小説を映画化した作品で、小説よりも面白いと思える作品はあっただろうか。比較できない作品ならあるだろうが、たいていは小説を超えていない。誰も読んでないような小説を映画化したのなら小説を超えられるかもしれないが、ベストセラー小説を映画化してもだいたいが映画の負けに終わる。表紙絵や挿し絵が余計に思えるほど、小説の楽しみは読者の空想の中にある。それに対して映画は鑑賞者の空想力を抑制してしまう傾向にあり、楽しみ方がずいぶんと違ってくる。ましてや映画は100分の芸術。読むのに丸一日かかる小説を、小説の魅力をとどめたまま、たった100分間にギュッギュッと詰め込んでしまうのは不可能に近い。

 小説を映画にする際は、様々のことに気を配らなければならない。これはもうガラリとスタイルを変える必要がある。想像の産物だった登場人物と世界観を視覚的な形にしなければならないし、文章で説明できた主人公の心理や場面の状況を、映像だけで表現しなければならない。そうなることで、必然的にストーリーも描き方も変わってきて、別物同然に。もはや比較できない。こうなってくると、小説を読んだものにとっては、映画版の方は歯痒いものに感じるかもしれない。もう少し工夫して欲しかったとがっかりするだろう。映画と小説の違いを探してみるのも面白いが、ここで小説を意識せずに、映画オリジナルの芸術として鑑賞して見るのも、まあひとつの見方だ。突然だが、小説好きは文系、映画好きは理系。そんな気がしてきた。

 よく聞くのが、映画と小説どちらを先に鑑賞するか。アガサ・クリスティのファンが悩んでいたことを思い出した。クリスティの物語は初めて見る(読む)ときが一番面白い。クリスティに限らず、映画と小説の場合、どちらを先に鑑賞するかで、後から鑑賞する方の見方もずいぶんと変わってしまう。例えば、映画を先に見てしまうと、登場人物や世界観のイメージが固まってしまって、小説を読むときに想像力が膨らまない。映画を小説化したノベライゼーションに映画よりも魅力を感じないのはそのためだろう。映画と小説、どちらを先に楽しむべきか、実に迷うところだろうが、どちらとも初めて鑑賞する気持ちで楽しめるなら、どんなに幸せだろうか。しょせんそれは無理な話だろうが。

 話は変わるが、今まで、小説でも舞台でもなく、「映画だけの映画」といえる作品に出会ったことはあるだろうか? 皆さんの価値観でいいが「これが映画芸術だ」と思ったものでいい。必ずあるはずである。そう感じた映画をもう一度見直してもらいたい。
 ちなみに僕は、チャップリンの「殺人狂時代」、オーソン・ウェルズの「市民ケーン」が、そういう映画のお手本だと思っている。ストーリーを視覚的に見せる切り口が、まさに映画芸術そのもの。小説依存症の方々にぜひ鑑賞してもらいたい2本だ。

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