ノルシュテインに学ぶ映画言語(レポート) (フィルムロジック)

ノルシュテインの10時間に及ぶ講義
 2004年12月12日。ロシアの映画監督ユーリー・ノルシュテインのワークショップを受講しに、ラピュタ阿佐ヶ谷まで行ってきた。ノルシュテインはご存じ、世界で最も偉大なアニメーション作家である。講義内容はセルゲイ・エイゼンシュテインの名作「イワン雷帝」を教材にして、映画言語の原則について分析するというもので、会場には僕を含めて120人の生徒たちが集まった。講義は延長して10時間にも及んだが、この10時間は僕らにとって大変に意義のある10時間となった。ノルシュテイン先生はこの映画の第二部の全てのショットを、先生自ら書いた絵コンテを使って、先生なりの解釈でひとつずつ構造を分析し、生徒達に丁寧に繰り返し教えた。「イワン雷帝」は僕もDVDを持っていたし、二度見たことがあったが、今回改めて「イワン雷帝」が完全に計算された形式の中に作られた傑作だということに気づかされ、大変勉強になった。先生はこの講義の最後に「家に帰ってもう一度この映画をよく見直してください」と言ったが、ならば僕にできることは、このスペースを借りて、自分なりのレポートを発表することだった。それが僕にとって一番の誠意表示だと思ったからだ。
 なお、ここでは、ノルシュテイン先生のワークショップを通じて学んだことをベースにしてはいるが、先生のお言葉のいくつかを引用しつつも、あくまで僕なりの映画理論を提示させていただくことにした。そのため、これは厳密にはユーリー・ノルシュテインの教育の記録ではなく、ひとつの視点に過ぎないことをご承知いただきたい。
映像と音のつながり
 ノルシュテイン先生は、まず映像と音の相関関係について分析した。音の概念にはテンポとリズムがあり、テンポは早いか遅いかという概念で、リズムは動きに関する概念である。「イワン雷帝」は映像の動きと音のリズムが理想的に結びついた映画であり、本作ではセリフや効果音でさえ音楽的に描かれ、映像に密接に結びついているという。いわれてみれば、ノルシュテイン先生の「話の話」のオオカミの囁き声は音楽的で、映像に結びついていた。
  「イワン雷帝」で、いきなり驚かされるのはタイトルバック(1)だ。プロコフィエフの雄大な音楽と、煙の動きの変化が、壮大なストーリーを期待させる。続く戴冠式のシークエンスでも、始終鐘の音が鳴り響いており、異様な緊張感が醸し出されている。エイゼンシュテインはトーキーの出現後、映像と音の結びつきを徹底的に研究し、この作品の中でそれを実践し、トーキーならではのモンタージュの法則を確立させている。
 先生は、映像と音のつながりを説明するために、何頭もの馬が教会に向かって駆け上がっていくシーン(2)を例にあげた。画面手前からぐるりと回って奥の教会へと吸い込まれていく映像的なダイナミズム。リズミカルな音楽と、馬の動きが、絶妙の調和を見せている。先生は鼻歌をまじえて、これを繰り返し説明してくれた。
 すべての映像と音は相関関係にある。先生は、その相関関係のラインが多ければ多いほど、作品の品格も増すという。映像を響かせるためには、ときには音楽を小さくしたり、ポーズしたり、強調したり、様々な工夫をしなければならない。



(1)印象的なタイトルバック


(2)BGMと馬の動きの関係

三角形のコンポジション
 「イワン雷帝」で最も印象的なコンポジションは「3の構図」である。つまり、エイゼンシュテインはしばしば「3」という数字を意識して人物を配置したのである。だから3人がフレームに入った映像が多く、また、三角形を形成している構図も多い。先程の馬の映像も「3の構図」である。三角形であればシンメトリーの構図も形成できるし、映像に無駄な余白がなく、フレームが締まる。「イワン雷帝」の構図は、映画言語の考えられる最も理想的なバランスを持ったコンポジションによって建築されているといえるだろう。本作は演劇的という批判もあるが、この「3の構図」は映画のフレームだから成し得るものだということを忘れてはならない。
 右上の写真。何か書類を手渡しするショット(3)を見ても、そこに三角形が形成されていることがわかる。先生はここで画面右手の男の手が、実生活ではありえない格好をしていることを指摘している。普通ならこういう風には物を受け取らないが、映画言語としてはOKだという。波を描くような手の動きや、動物のようなジェスチャー。先生は、映画言語においては、俳優の動きに、リアリズムを取り入れてはいけないと説明する。抽象を持ってきて、抽象から現実を表現することが、映画言語の醍醐味であって、映画の動きは、文学と同じではダメで、あくまで映画的言語で作らなければならない。エイゼンシュテインの映画は、まさしく映画言語だけで作られた映画ということになる。
 エイゼンシュテインの映画の俳優の動きは、どれも計算されているように見える。イワン雷帝が教会に入っていくシーン(4)では、イワンのセリフと入れ替わるように音楽が消えていき、イワンが前に進むと同時にカメラが後退する。それから後ろの2人(イワンを入れて3人の構図になる)が前に歩み寄ることで、イワンの姿をさらに押し出すように表現している。
 先生は、動きの強弱も、前後のシーンにきちんと関連していると説く。ゆったりした動きの後に、早い動きを見せれば、それだけで強調になるのである。
 僕がこの日最も関心を持ったのは、アメリカ映画の対話シーンと、エイゼンシュテインの対話シーンの比較である。アメリカでは肩なめショット同士で二人の対話を表現する手法が杓子定規のように使い回されているが、先生は決まり切った演出を真似るのはつまらないことだと吐き、エイゼンシュテインの対話シーン(5)を黙って生徒達に見せた。先生はこれに何も説明を加えなかったが、三角形のコンポジションを取り入れたこのシーンのカメラワークの独創性は、それだけで十分に訴えかけるものがあった。



(3)実生活にはないジェスチャー


(4)計算されたコンポジション


(5)対話シーンの工夫
シンボリックな表情
 先生が相当気に入っていたと思われるシーンが、男がしかめっ面をするシーンである(6)。先生はこの顔の表情を自分のアニメーションにも活かせないかと、スケッチを見せてくれた。そもそもなぜアニメーターであるノルシュテイン先生が、この講義の教材に実写映画「イワン雷帝」を選んだのかというと、この映画の映画的な言語が、あたかもアニメーションのようだったからである。このしかめっ面も、リアリズムからは外れているが、まるでアニメのようなシンボリックな表情を浮かべている。重要な役に限らず、本作に出てくる俳優は皆アニメのような顔つきと服装である。
 エイゼンシュテインは俳優をまるで機械のように扱ったことで批判されたこともあるが、形式主義的な作品では、こうした表情はむしろ効果的である。エイゼンシュテインは本作でローアングルやクロースアップを多用しているが、照明を真下からあてるなど、ロシア人の濃厚な顔つきとキテレツな服装のコントラストを強調して、映像による比喩を可能にしているのだ。
 先生は少年時代のイワン(7)を例に、映像の比喩について説明している。これは、かぼそい肩をあらわにすることで、イワンがただの少年であることを意味している。また、先生は触れられなかったが、このときのイワンの乱れた髪も、子供っぽさを表していると考えてもいいだろう。映像の少年らしさと、ストーリーの残酷性の対比が、大人になったイワン雷帝の人間性を強調させるのである。



(6)強調された表情


(7)映像の比喩
色彩と動きの相互作用
 先生は「イワン雷帝」のわずか数分しかないカラーのシーン(8)を、生徒達に4度も繰り返して見せた。先生はこの宴会のシークエンスについて、古典的な絵画や音楽の基本がすべて込められた、少しも無駄のない、映画史上最も優れたシーンと評しているが、たしかにこの映像のダイナミズムは見れば見るほど興味深く、目を見張るものがある。最初に説明のあった馬の音楽がここでも使用され、赤、黒、黄色と、目まぐるしく色彩が変化していく。黒の中に赤があったり、色の強調の仕方が絶妙である。
 これがすべて偶然の産物ではなく、計算されたものだと断言できるのは、エイゼンシュテインがテクニカラーの登場する前から、すでにカラー映像についての可能性を、論文にしていたからである。「イワン雷帝」はこのシーンだけがカラーであるが、これがモノクロの映像の中に挟まれても違和感無く受け入れられるのは、色彩が映像の動きと見事に調和しているからに他ならない。だからこそ、この後につづく悲惨なシーンのモノクロ映像の相関関係が説得力のあるものになっている。
 この傾向は、先生の代表作「話の話」 の中にも見られる。まばゆい光の中、一人の旅人が一本道を歩いていくシーン(9)である。この夢想的でファンタジックな映像は、セピア調で描かれているが、動きと音楽と色彩が見事な調和を見せている。このシーンがどこか寂しげなのも、色彩のワザである。
 もうひとつ「話の話」で、一匹のオオカミが不思議な光に導かれていくシーン(10)を思い出してみると、ここにもエイゼンシュテインの強調のコンポジションが活かされていることがわかる。まわりが黒であるため、光が引き立ち、さらにオオカミのシルエットが絶妙のコントラストを作り上げている。
 ノルシュテイン先生は、映画をみるとき、表面だけではなく、その暗号を解読し、深みを見なければならいのだと教え、講義のまとめとして、映画を作るにあたって最も大切なことは「作品の中で自分の感じていることを率直に最大限に表現すること」として、10時間に及んだ長い講義に幕を下ろした。この10時間は僕らにとって、まさに興奮と感動の連続であった。
→ノルシュテイン語録



(8)華麗なる宴会シーン


(9)「話の話」の色彩


(10)「話の話」のコントラスト

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