サイレント映画はトーキー映画よりも多くを語る (フィルムロジック)

「黄金狂時代」はトーキーになってダメになった
 今回のフィルムロジックでは、チャップリンの映画について研究する。カメラ様式をいっさい排除したチャップリンの映画技法は折り紙付きであり、映画史上最も尊敬されるこの巨匠の作品を知ることこそ、映画の本質を知ることの一番の近道だと断言する。
 掲げたテーマを証明する最良の作品は、チャップリンの至芸がつまった最高傑作『黄金狂時代』である。これはサイレント映画としてみるべくして作られた作品であるが、発表から17年後、トーキー映画に再編集し、チャップリン自らがナレーターを吹き込んだ(いわゆるディレクターズ・カットというわけだが、当時まだそのような言葉はない)。今ではトーキー版の方が一般的になってしまったが、結論から言うと、トーキー版の内容はまったくひどい。
 『黄金狂時代』に賞賛を惜しまなかった故・淀川長治氏が見たのはオリジナルの方である。淀川氏はトーキー版については、はたしてどう思ったか。私は不幸にも先にトーキー版を見てしまったため、この映画の良さがしばらくわからなかったが、後からオリジナルを見て、その偉大さにようやく感服した。初めにオリジナルを見ておくべきであった。出来の悪い方が後世に残ってしまった『黄金狂時代』は、なんとも皮肉な作品なのだ。
 このページでは、『黄金狂時代』のトーキー版の何が良くないのか、その理由を、サイレントとトーキーの違いを検証しつつも、順々に説明していく。



Love Chaplin! Box I
DVD紹介サイトのリンク
ジェネオン エンタテインメントより発売中。28,200
「黄金狂時代」単体は4,700
※以前はトーキー版(チャップリンの失敗作)とサイレント版(チャップリンの最高傑作)を別々の会社が販売していたが、こちらのDVDでは、なんとその両方を一本に収録! これを利用しない手はないぞ!
©2003 Geneon Entertainment,INC.
音がないからイメージはふくらむ
 チャップリンは長年サイレントにこだわり続けた。チャップリンほどサイレントという形式に固執した者はいない。理由は「もし浮浪者が喋れば、空気が台無しになる」とのことだったのだが、『独裁者』でその気持ちを思い直したチャップリンは、早速『黄金狂時代』を改訂。浮浪者の人格を裏切る結果となってしまった。チャップリンという偉人の矛盾がここにある。ほぼ切れ目無くチャップリンの説明台詞に埋め尽くされた新版トーキー映画は、チャップリンの魔法が無惨にも消滅してしまった失敗作である。
 チャップリンに限らず、サイレント映画の良いところは、「観客の想像力をかきたてること」である。サイレント映画はいってみれば詩のようなものだ。詩的情景に観客は感動するのである。チャップリンの哀愁たっぷりの演技も、サイレントだからこそ生命を宿すのである(1)。『独裁者』がトーキーでありながらもヒットしたのは、社会的なユーモアがあったからであって、『黄金狂時代』の人間臭さとは別の要素である。『黄金狂時代』の浮浪者は、独裁者ヒンケルとは違い、本来喋ってはいけないものだったのだ。
 ジョージアが浮浪者を誘惑するシーン(2)は、サイレント版を見ると、ジョージアの表情と動きがこの上なく色っぽく、浮浪者の反応にも見応えがある。詩的で甘酸っぱいこの一幕が、トーキー版を見ると、「彼女は彼の髪をなでた。彼は幸せだった」という余計な解説によって、色気が半減してしまっている。浮浪者の反応もセリフに殺されて一辺倒に見える。サイレント版では、観客がジョージアの声をイメージするため、観客は、心の中で、最高に魅力的な美声を作り上げるわけだが、トーキー版ではそのイメージは一瞬にしてかき消されてしまうのだ。
 情報の量は、セリフ自体はトーキー版の方が多いが、結果的には、映像に集中できるサイレント版の方が、より多くの情報を含んでいるのである。トーキー版は作品の方が一方的に観客にセリフを押しつける「受動」であるのに対し、サイレント版は、観客が一歩前に出て登場人物の感情をつかもうとする「能動」なのである。
 サイレント版とトーキー版で、もっとも分かりやすい相違点は、銃声である。銃声とは、無声映画にはまったく不必要なものだ。銃は発砲すると銃口から煙が噴き出すため、映像さえ見ていれば発砲したことは容易に理解できるからだ。観客は煙を見た瞬間、心の中でリアルな銃声をつくりあげることだろう。本作のトーキー版には、銃声の効果音が入っている(3)。それまでのシーンでは、観客自身が劇中の音を補完していたのに、そこに突如と銃声音を聞けば、その瞬間、観客は夢から覚めてしまうのである。音を自分で想像するのと、用意された音を聞くのとでは、あなたはどちらが面白いと思うだろうか。おそらく自分で想像する方だろう。人の想像力に限界はないが、効果音の表現には限界がある。突如発されるこの銃声が、観客の想像を裏切った場合、それがひどく安っぽく聞こえてしまっても無理はない。
たった一枚の字幕に託された思い
 私がサイレント版で、一番感銘を受けたシーンは、酒場で大男と浮浪者が再会を果たすシーンだ。大男が「山小屋!」と叫ぶ様が、大きな字幕で表現されており、非常におかしい。その字幕に続く字幕が、浮浪者のセリフで、「ジョージア!」である(4)。大男のばかでかい大声にも匹敵する声を、同じ大きさの文字で表し、愛するジョージアへの思いをこの一枚の字幕に託している。これは『街の灯』の「あなたでしたの」という有名な字幕の原点ともいってよく、劇中最高にロマンチックである。トーキー版ではこの感動的なワンシーンが、いたって平凡なシーンになっていたのが残念である。

 ここではサイレント版ばかりを褒めたが、トーキー版の褒めるべき点も多い。チャップリン自身の楽曲が堪能できるのも売りだが、山小屋が傾くシーンでの「ギシギシ」というコミカルな効果音も、サイレント版にはないおかしさとサスペンスを醸し出しており、よくできている。チャップリン自身はトーキー版の方を気に入っていたに違いないが、結局のところ、こればかりは観客の好み次第というしかない。
 トーキーは奥が深い。チャップリンは『殺人狂時代』では、映像と音が互いに補完しあう演出など、トーキーでしか描けない技巧映画を作っており、私はこれでトーキーにはトーキーなりの演出の妙があることを教えられた。そしてこの演出技法が今日の映画を支えている。今後こちらでも、この問題は積極的に取り上げていきたい。
(1)チャップリンの哀愁をおびた表情は、音がないからこそ意味がある。人間は、耳よりも、目から入る情報の方が大きい。


(2)サイレント映画では女優の発する言葉は、もっぱら観客の想像に委ねられる。ジョージアのこの色っぽい物腰に、音声など必要だろうか?


(3)銃が発砲されたことくらい、画をみれば一目瞭然だ。銃声音を入れたところで、かえって観客の想像力をかきけしてしまうのが落ちである。


(4)声ではなく、文字だからこそ得られる感動がある。サイレント映画はとかく詩的なのだ。

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