三船敏郎(撮影・早田雄二)

三船敏郎

No.336 Toshiro Mifune (1920-1997) Japanese Actor

 日本には星の数ほどの名優がいるが、三船敏郎だけは別格中の別格だろう。彼を超えるスターは二度と現れないかもしれない。「世界のミフネ」と言われ、日本人としてではなく、ひとりの俳優として、世界中のトップスターたちから「最も尊敬する俳優」と慕われた。

 僕は昔はこの人の良さがわからなかった。ひどくオーバーな演技に思えたからだ。しかし今はその荒々しさが好きである。『用心棒』(61)の歩き方もかっこいいし、『天国の地獄』(63)で「くっ」と言って怖い顔をする演技も迫力があって好きだ。『野良犬』(49)を見たときは、なんとワイルドでセクシーな俳優なのだろうかと思った。ある年のアカデミー賞授賞式のレッドカーペットでのセレブインタビューで「好きな日本の俳優は誰ですか?」と聞いたところ、ほとんどのセレブが「トシロー・ミフネ」の名をあげた。「他に誰がいるっていうの?」というセレブもいたほどだ。

 三船敏郎の映画デビューは実に意外である。本当はカメラマンになりたかったのだが、どういうことか東宝に送った履歴書がニューフェイス募集の中に紛れ込む。面接では「笑ってみて」と言われて「急に笑えと言われても笑えません」と無愛想に答えたという。しかしこれを見た黒澤明に認められ黒澤の脚本作品『銀嶺の果て』(47)でデビューを飾る(共演は志村喬だった)。翌年には『酔いどれ天使』(48)のチンピラ役で黒澤明監督作品に出演。主演の志村喬を食ってしまうほどの強烈なインパクトを残した。黒澤はこのときの三船のことを「飢えた獣のようだった」と述懐している。以後、三船は黒澤映画に欠かせない存在となり、17年間黒澤映画に欠かさず出演した(ただし唯一『生きる』だけには出演していない)。『七人の侍』(54)、『蜘蛛巣城』(57)などの時代劇は世界中で高く評価され海外の映画賞を多数受賞した。三船と黒澤の俳優と監督の関係は、世界でも類を見ないほどの名コンビだったが、『赤ひげ』(65)を最後にプツリと縁が切れている。黒澤以外では稲垣浩監督、岡本喜八監督作品にも多く出演した。

 米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた『価値ある男』(61)以後、三船は世界中の映画界で活躍をすることになる。『太平洋の地獄』(68)は、戦争中に島に流れ着き、全く言葉も通じない敵同士が協力しあって生き抜く話で、リー・マーヴィンと見事な競演を見せ、国際スターとして認められるきっかけとなった。71年にはフランス映画『レッド・サン』に出演。共演したアラン・ドロンは三船をヒントに香水「SAMOURAI」をプロデュースした。『将軍』(80)では侍のイメージを海外に定着させた。三船の侍スタイルは、後に数多くのパロディを生むことになった。

 海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船はほとんどの依頼を断っている。『スター・ウォーズ』のダースベーダー役を蹴ったのは有名な話だ。ルーカスは『スター・ウォーズ』の元ネタを三船の『隠し砦の三悪人』(58)だと明かしている。

 後年で印象的な作品は『男はつらいよ/知床慕情』(87)の頑固親父役だろう。『男はつらいよ』シリーズは海外でも人気が高いが、その中でも最も人気のある作品は『知床慕情』であり、これは世界のミフネが出演しているからだと言われている。

 晩年は洋画『ピクチャー・ブライド』(96)に出演した。僕がこの映画を観ているとき、三船が出てきたところで隣の外国人が「ジャパニーズ・サムライ!」と言って鼻息が荒くなったのを覚えている。

 ベネチアではかなり評価が高く、それまでに10本近い出演作がベネチアで賞を受賞している。『羅生門』(50)、『無法松の一生』(58)は金獅子賞、『七人の侍』と『千利休 本覺坊遺文』(89)は銀獅子賞を受賞、『用心棒』と『赤ひげ』で主演男優賞を受賞している。97年、死去したとき、イタリアの国営放送ではトップニュースで報じた。翌年のアカデミー賞授賞式のメモリアル映像では、三船の映像が映し出された時、大きく拍手喝采が起こった。(2008/2/18)