A.I. (レビュー)
タッチが異なる3つのストーリー
不満はいくらでもあった。スピルバーグの演出はいまひとつ世界観にマッチしておらず、仕上がりも彼の作品としてはもっともチンケなものである。しかし僕はこの映画が大好きである。それはこれが観る者に作品の意義について考えさせる内容だからである。
映画は3幕構成になっており、それぞれ、ロボットと人間の共存の疑問、社会的対立の疑問、普遍的幸福の疑問を残す。各幕、演出のタッチは著しく、空気の質感からまるで異なる。
ホームドラマ的な第1幕は現実的で深刻な内容。極力音声を無くし、ある種不気味なムードが漂う。
SFアドベンチャー仕立ての第2幕は、様々の効果音、BGMがひしめき、フィクション的な面白さが強くなる。
予想も付かせぬ第3幕は、ピアノの音色が美しく、神々しさと郷愁が同居した、お伽話風の物語である。
第1幕は食事のシーンやプールのシーンなどが冗長。第2幕はプロットが強引なのと、Dr.ノウなど必要のないシーンが多い。第3幕は余計に描きすぎた嫌いがある。各幕、何かしら不満はあるが、そこに描かれている意義について考えると、至らない箇所にも目をつぶりたくなってくるものだ。それだけ「A.I.」のテーマは尊い。
■役者の声が作品の格調を高める
「A.I.」は役者が良い。僕が「A.I.」で一番褒めたいのは役者陣の演技である。ハーレイ・ジョエル・オスメント演ずるデイヴィッドは「永遠」の子供である。子供ゆえに発想が幼く、「一瞬」のまばたきもせずに大人の顔を見詰める無邪気な姿が感動的である。第3幕で長い眠りから覚め、ヘリの外へとゆっくりと歩み出るシーンの演技など、見事の一言だ。
役者の声もこの作品で重要な位置を占めている。とくにテディの声の雰囲気は特筆に値する。歩き方は可愛いらしいが、年輩の声で、いかなるときもデイヴィッドに冷静に語りかけてくる。テディは声といい性格といい、「A.I.」の独特な世界観と最も釣り合いのとれたキャラクターである。
もう一人、未来人役のベン・キングスレーが素晴らしい。世の中のすべてを知ってそうな温かい声である。彼にナレーションまでやらせてしまったのはどうかと思うが、第2幕の語りなどは、心揺さぶられるものがあり、彼の声が作品の格調を高めたことは間違いのないことだ。この際、ナレーションと未来人の声が同じというのは忘れたい。
■一瞬のビジョンを観客に焼き込ませる
第3幕に涙した観客が多かったワケは、そこに描かれた一瞬のビジョンが、観客の記憶の断片を呼び覚まし、そこに重ねられたからである。その証拠に、第3幕の映像は夢想のような視覚効果が施されてある。
しかし、そこにあるものは、デイヴィッドの愛のみをおいて他になく、他のすべてはそこに用意された単なる作り物である。言ってみればデイヴィッドは人類の愛を観察するためにオリに閉じこめられたモルモットでしかない。我々はまやかしにだまされていたことになる。スピルバーグはこうしてラストでこの世のすべてのものを消し去り、そこに愛だけを残すことで、愛を純化し、生理的に観客を感動させていたのである。
デイヴィッドがその後どうなったのかなどを考えさせる余地はそこにはまったくない。「A.I.」は一瞬の幸福を描いたまま、フェードアウトして終わる。そして観客の心にはその一瞬の幸福が余韻として残る。映画館で、エンドロールが流れても観客が誰一人席を立とうとしなかったのはそのためだ。それだけ観客を引きずりこんだ「A.I.」の魔力は恐ろしい。
2001年
ワーナーブラザース=ドリームワークス映画
<製作・監督・脚本>
スティーブン・スピルバーグ
<出演>
ハーレイ・ジョエル・オスメント
フランシス・オーコナー
ジャック・エンジェル
ジュード・ロウ
ウィリアム・ハート
ロビン・ウィリアムズ
メリル・ストリープ
ベン・キングスレー
(第89号「レビュー」掲載)
不満はいくらでもあった。スピルバーグの演出はいまひとつ世界観にマッチしておらず、仕上がりも彼の作品としてはもっともチンケなものである。しかし僕はこの映画が大好きである。それはこれが観る者に作品の意義について考えさせる内容だからである。
映画は3幕構成になっており、それぞれ、ロボットと人間の共存の疑問、社会的対立の疑問、普遍的幸福の疑問を残す。各幕、演出のタッチは著しく、空気の質感からまるで異なる。
ホームドラマ的な第1幕は現実的で深刻な内容。極力音声を無くし、ある種不気味なムードが漂う。
SFアドベンチャー仕立ての第2幕は、様々の効果音、BGMがひしめき、フィクション的な面白さが強くなる。
予想も付かせぬ第3幕は、ピアノの音色が美しく、神々しさと郷愁が同居した、お伽話風の物語である。
第1幕は食事のシーンやプールのシーンなどが冗長。第2幕はプロットが強引なのと、Dr.ノウなど必要のないシーンが多い。第3幕は余計に描きすぎた嫌いがある。各幕、何かしら不満はあるが、そこに描かれている意義について考えると、至らない箇所にも目をつぶりたくなってくるものだ。それだけ「A.I.」のテーマは尊い。
■役者の声が作品の格調を高める
「A.I.」は役者が良い。僕が「A.I.」で一番褒めたいのは役者陣の演技である。ハーレイ・ジョエル・オスメント演ずるデイヴィッドは「永遠」の子供である。子供ゆえに発想が幼く、「一瞬」のまばたきもせずに大人の顔を見詰める無邪気な姿が感動的である。第3幕で長い眠りから覚め、ヘリの外へとゆっくりと歩み出るシーンの演技など、見事の一言だ。
役者の声もこの作品で重要な位置を占めている。とくにテディの声の雰囲気は特筆に値する。歩き方は可愛いらしいが、年輩の声で、いかなるときもデイヴィッドに冷静に語りかけてくる。テディは声といい性格といい、「A.I.」の独特な世界観と最も釣り合いのとれたキャラクターである。
もう一人、未来人役のベン・キングスレーが素晴らしい。世の中のすべてを知ってそうな温かい声である。彼にナレーションまでやらせてしまったのはどうかと思うが、第2幕の語りなどは、心揺さぶられるものがあり、彼の声が作品の格調を高めたことは間違いのないことだ。この際、ナレーションと未来人の声が同じというのは忘れたい。
■一瞬のビジョンを観客に焼き込ませる
第3幕に涙した観客が多かったワケは、そこに描かれた一瞬のビジョンが、観客の記憶の断片を呼び覚まし、そこに重ねられたからである。その証拠に、第3幕の映像は夢想のような視覚効果が施されてある。
しかし、そこにあるものは、デイヴィッドの愛のみをおいて他になく、他のすべてはそこに用意された単なる作り物である。言ってみればデイヴィッドは人類の愛を観察するためにオリに閉じこめられたモルモットでしかない。我々はまやかしにだまされていたことになる。スピルバーグはこうしてラストでこの世のすべてのものを消し去り、そこに愛だけを残すことで、愛を純化し、生理的に観客を感動させていたのである。
デイヴィッドがその後どうなったのかなどを考えさせる余地はそこにはまったくない。「A.I.」は一瞬の幸福を描いたまま、フェードアウトして終わる。そして観客の心にはその一瞬の幸福が余韻として残る。映画館で、エンドロールが流れても観客が誰一人席を立とうとしなかったのはそのためだ。それだけ観客を引きずりこんだ「A.I.」の魔力は恐ろしい。
2001年
ワーナーブラザース=ドリームワークス映画
<製作・監督・脚本>
スティーブン・スピルバーグ
<出演>
ハーレイ・ジョエル・オスメント
フランシス・オーコナー
ジャック・エンジェル
ジュード・ロウ
ウィリアム・ハート
ロビン・ウィリアムズ
メリル・ストリープ
ベン・キングスレー
(第89号「レビュー」掲載)