オールド・ボーイ (レビュー)
論争を経て学んだこと
Old Boy
2003/韓国
監督:パク・チャヌク
原作:土屋ガロン、嶺岸信明
出演:チェ・ミンシク
「オールドボーイ」DVD
僕は2004年日本で公開された映画ではベスト5に入る傑作だと思っているが、僕の勤めている会社の先輩はこれを駄作とののしった。その理由は奇しくも僕がこの映画を好きな理由のまるきり裏返しであった。興味深いので、その相違はここに掲載するに値する。僕らの会話は単なる好み違いでしかないので、野球ファンにいくら野球がつまらないスポーツだとイチャモンをつけたところで何の効果もないのと同じで、僕と趣味の違う先輩が僕に何を言おうが、僕は知ったこっちゃないのだが、ただしひとつだけ学ぶことがあった。
先輩「演技がわざとらしい。迫真の演技のつもりだろうが、あれじゃ漫画だ」
僕「ああいう演技こそ本当に映画らしい演技だと思います。たとえ漫画みたいだとしても、それのどこがいけないのでしょうか」
先輩「一人で大勢の敵を相手にして勝てるはずがない。バカげてる」
僕「フィクションなんですから、むしろありえないことがあった方が面白いと思いませんか。僕はカナヅチ一本だけで大勢の敵をなぎたおすところに圧倒されました。カナヅチという小道具は誰も考えもしなかったことですし、長回しの映像にも鬼気迫るものがありました」
先輩「ムリな展開を催眠のせいにしてしまえば何でもアリだから白ける」
僕「何でもアリだからこそ、次にどうなるかわからない怖さがあるんですよ。催眠という演出自体ユニークなアイデアなので、僕はすごく新鮮でした。この映画で重要なのは、登場人物たちが見せる行動のインパクトだと思うのですが、その点では催眠にかかっているかどうかは問題ではありません。要はあなたが個々のシーンをどう感じとるかですよ」
以上。先輩が「ここがダメ」といったところが、むしろ僕は「そこがいいのに」といいたいところである。これはセンスの問題なのだろう。こうなってはいつまでたっても論争は平行線だと思うので、僕は実際には先輩の前では最初から一切コメントしていない。心の中でこう思ったまでである。先輩の指摘はかなり細かかったので、映画のストーリーはちゃんと理解している様子だったが、ストーリーが理解できても、生理的にダメという人はダメということだ。
僕はこの映画をもって、個人的嗜好の違いによっては、人それぞれ意見がまったく違うという至極当たり前の真理をまざまざと教えられ、目から鱗が落ちた。この映画の是非をめぐっての先輩との心の論争は、言ってみれば「映画」という芸術そのものの是非を決める論争に等しかった。先輩はこの映画を否定したが、それは僕にとっては映画の映画たる楽しみを否定されているようにさえ思えてきたのである。
映画の方法論の宝庫である「オールド・ボーイ」は、「映画」を好きか嫌いかを決める一種のリトマス試験紙になるのかもしれない。
Old Boy
2003/韓国
監督:パク・チャヌク
原作:土屋ガロン、嶺岸信明
出演:チェ・ミンシク
「オールドボーイ」DVD
僕は2004年日本で公開された映画ではベスト5に入る傑作だと思っているが、僕の勤めている会社の先輩はこれを駄作とののしった。その理由は奇しくも僕がこの映画を好きな理由のまるきり裏返しであった。興味深いので、その相違はここに掲載するに値する。僕らの会話は単なる好み違いでしかないので、野球ファンにいくら野球がつまらないスポーツだとイチャモンをつけたところで何の効果もないのと同じで、僕と趣味の違う先輩が僕に何を言おうが、僕は知ったこっちゃないのだが、ただしひとつだけ学ぶことがあった。
先輩「演技がわざとらしい。迫真の演技のつもりだろうが、あれじゃ漫画だ」
僕「ああいう演技こそ本当に映画らしい演技だと思います。たとえ漫画みたいだとしても、それのどこがいけないのでしょうか」
先輩「一人で大勢の敵を相手にして勝てるはずがない。バカげてる」
僕「フィクションなんですから、むしろありえないことがあった方が面白いと思いませんか。僕はカナヅチ一本だけで大勢の敵をなぎたおすところに圧倒されました。カナヅチという小道具は誰も考えもしなかったことですし、長回しの映像にも鬼気迫るものがありました」
先輩「ムリな展開を催眠のせいにしてしまえば何でもアリだから白ける」
僕「何でもアリだからこそ、次にどうなるかわからない怖さがあるんですよ。催眠という演出自体ユニークなアイデアなので、僕はすごく新鮮でした。この映画で重要なのは、登場人物たちが見せる行動のインパクトだと思うのですが、その点では催眠にかかっているかどうかは問題ではありません。要はあなたが個々のシーンをどう感じとるかですよ」
以上。先輩が「ここがダメ」といったところが、むしろ僕は「そこがいいのに」といいたいところである。これはセンスの問題なのだろう。こうなってはいつまでたっても論争は平行線だと思うので、僕は実際には先輩の前では最初から一切コメントしていない。心の中でこう思ったまでである。先輩の指摘はかなり細かかったので、映画のストーリーはちゃんと理解している様子だったが、ストーリーが理解できても、生理的にダメという人はダメということだ。
僕はこの映画をもって、個人的嗜好の違いによっては、人それぞれ意見がまったく違うという至極当たり前の真理をまざまざと教えられ、目から鱗が落ちた。この映画の是非をめぐっての先輩との心の論争は、言ってみれば「映画」という芸術そのものの是非を決める論争に等しかった。先輩はこの映画を否定したが、それは僕にとっては映画の映画たる楽しみを否定されているようにさえ思えてきたのである。
映画の方法論の宝庫である「オールド・ボーイ」は、「映画」を好きか嫌いかを決める一種のリトマス試験紙になるのかもしれない。