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Control
2007/イギリス・アメリカ・オーストラリア、日本/スタイルジャム/119分
出演:サム・ライリー サマンサ・モートン アレクサンドラ・マリア・ラーラ ジョー・アンダーソン 
監督:アントン・コービン
原作:デボラ・カーティス

偏差値:56.0 レビューを書く

コントロール [70点] [参考:2]

このレビューはネタバレを含みます

U2やディペッシュ・モード、そしてこの映画で取り上げられるジョイ・ディヴィジョンなど、ロック・スターたちのポートレイトで一躍有名写真家となったアントン・コービン。ミュージック・ビデオやアルバムのジャケット・デザインなども手がける多才な彼が、いよいよ映画監督に手を染めた。

本人曰く、“ロック写真家”と呼ばれる事に嫌気が差していたそうで、自殺したイアン・カーティスの伝記映画企画であるこの作品にも、当初は気乗りしていなかったとか。しかしながら、ジョイ・ディヴィジョンは、コービンが故郷オランダを離れてロンドンに移住するきっかけとなったバンドでもある。彼にとって、やはりこれは特別な意味を持つ作品であることがわかる。

ジョイ・ディヴィジョンの精神的リーダーであり、バンドの全ての楽曲の作詞を担当していた詩人イアン・カーティスは、1976年から自殺する1980年までのたった数年の間だけ、若者からカリスマと崇められた伝説的なミュージシャンだった。この映画は、てんかんという不治の病に苦しみ、アートとビジネスの軋轢に苛まれ、妻と愛人との間をふらふらと彷徨う、大人になりきれない男の苦い青春の記録だ。イアンは亡くなったとき、わずか23歳。人生これからという年齢である。若くして自ら命を断ったミュージシャンというと、かのカート・コバーンなどを思い出すが、この映画からはさらに痛々しさが感じられる。映画が、イアンという男の実像に迫ろうとするスタンスを持っているからだ。憂鬱な田舎町で若くして結婚し、家庭生活に幻滅しながらも夢を諦めきれず、しかしいざその夢が現実のものとなると恐怖にかられるイアンの焦燥は、手っ取り早く彼を偶像化するのではなく、ごく普通の男として捉え直そうとする監督以下製作陣の意識の表れだろう。
映画は、イアンの妻デボラが書き綴った手記を原作としているが、実は彼女以外のイアンの関係者にもスポットを当てている。つまり、妻から見たイアン像だけではなく、バンド仲間から見たイアン像、マネージャーやレコード会社社長、はたまた愛人から見たイアン像までも織り込み、かなり多角的に彼の人物造形を試みているのだ。よって、バンドの純粋なファンが期待するような、ライブ風景やレコーディング風景など、バンドの成功物語にはほとんど触れられていない。あくまでも焦点はイアンの人間像であり、最期に至る彼の心理の軌跡を追うことに精力が傾けられている。ひょっとしたら、そこが作品の評価の分かれ目になるかもしれないが、音楽とその効果を熟知するコービンのこと、要所要所でイアンの心理状況とオーバーラップさせる形でバンドの名曲が何曲か流される。劇中のパフォーマンスは全て、登場人物を演じる俳優によって実演され、イアンの歌も演じるサム・ライリーが実際に歌っている。
思うに、この映画は、妻デボラが、あるいはバンド仲間が、マネージャーが、愛人アニークが、それぞれに抱くイアンの思い出を忠実に映像化した作品なのだろう。どんなにクソのような過去であっても、時間が経てばやがてそれも懐かしい思い出になるように、この映画もまた、全編絵画のごとく美しいモノクロで撮られるべきであったのだ。さすが、優れた写真家の撮った映画だけに、どのシーンを切り取ってもさりげなく立派な写真作品となっている。それだけひとつひとつのシーンの構図が計算されつくしていると言えるのだが、どこかひんやりとした作品のトーンは、観る者の感情移入を容易に許さない一面も持つ。純粋にジョイ・ディヴィジョンの音楽を楽しみたい向きには、あまりお勧めできないとも思う。

2008/04/22 23:25

豆酢

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