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Un Chien Andalou
1928/フランス/17分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ

偏差値:51.0 レビューを書く

凡人から見た『アンダルシアの犬』 [65点] [参考:1]

世の中には、映像イメージから無限のインスピレーションを得ることのできる人もいる。それは、世の真理の頂きにたどり着くかもしれないし、人の心を最深部まで探りつくすかもしれない。

しかし、平凡な私にはそれはできんかった。それができん人間が『アンダルシアの犬』になにを観る?

この映画はそもそもブニュエルとダリという二人の変人が見た夢を持ち寄ったことから始まった。女の目玉を切り裂くのはブニュエルの夢。手から蟻が這い出すのはダリの夢。二人の変人は、そのわけのわからん夢をきっかけに無限のインスピレーションの旅に出た。

思いつく限りのイメージをかき集め、こともあろうにわかりやすいものから消していった。これは合理的に説明ができるからダメだ。この画は、なじみがありすぎる。。。

そして、最後に残ったひとかたまりの映像イメージが『アンダルシアの犬』。

二人の変人が渾身の力を込めて作り出した映像は、凡人たる私なんぞが見てもなにがなんだかさっぱり解らない。いや、”解ろうという行為”がそもそも”解釈”をめざしているのだから、そこからして土台筋を違えているらしい。

「世の中は、こんなにつかみ所のないものなのだから、その真実は解釈不能・分別不能・説明不能なところにあるはずだ」という考え方は、全く理解できないわけでもない。世の中ではそういう考え方をシュールレアリスムと呼ぶらしい。そして、この映画はまさにシュールレアリスムを表現しようとしている。

だから、彼らが取ったアプローチは正しかった。しかし、それを表現するために”映画”という手段をとったことが正しかったのかどうかは、はなはだ心もとない。しかも、時はまだ1920年代。映画は実直に”世の中にある物体”を写すことしかできなかった。それを写真的に細工して、特撮なるものがようやく見るに耐えるものになった頃。

したがって、彼らの求めたイメージ表現は、すべて”世の中にある物体”を通して行われることになった。道路に落ちた手首、ピアノと牛の死体を引きずる牧師、それが、私のような凡人にはとんでもなく心地が悪い。全てのものがはっきり写りすぎる。見えすぎる。自分の見慣れているものが見慣れていない存在として、きわめて明瞭に持ち込まれてくる。

”解釈分別説明不能なものを表現する手段として、写実的なツールである映画を使った”という挑戦的矛盾は、その実験精神において賞賛に値する。それこそが重要であって、「結果としての作品をどう解釈するかは観る側の問題だ」とすることも、いとも簡単にできる。が、実はそれほど凡人である私の心は広くない。観る側の問題として勝手に丸投げされても、出来上がった作品を、とても「すごい!」と公言するわけには行かない。

そして、その後のブニュエルの作品、ダリの映画への関わり、アヴァンギャルド映画の行く末を考えれば、私のような凡人は他にもたくさんいたのだな、と密かにほくそえんでしまうのも凡人の凡人たる所以である。今のCG技術全盛期にこそ、ブニュエルとダリに『アンダルシアの犬』を撮って欲しかったと思う。

2008/04/27 11:57 (2008/05/02 21:04修正)

frost

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